前回に式子内親王の生年に関して諸説紛々ではっきりしないと書いたが、その直後に「国文学 解釈と鑑賞」(至文堂)1999年5月号を取り出して目を通すうちに、確証とも思える内親王の生年に関する記述に遭遇したので、比較の意味で他の説と併せて述べてみたい。
(1) 久安5年(1149)説(その1)
「国文学 解釈と鑑賞」(至文堂)1999年5月号の「式子内親王」において錦仁氏(当時新潟大学教授)は次のように書いておられる。
式子の生年はながいこと不明だったが、ようやく明らかになった。京都大学国史研究室蔵『人車記』断簡の嘉応元年7月24日条に、式子が斎院を退下したことに関する記事が見える。その裏書に《□斎王、高倉三位腹、御年廿一》とあることから、久安5年(1149)の生まれであり、よって「以仁王の妹ではなく姉であることが明らかになった」。没年は『明月記』の記事から、建仁元年(1201)正月25日。53歳の生涯であった。
(2) 久安5年(1149)説(その2)
同じ久安5年生年をウィキペディアは別の資料から取上げて、
式子内親王の「薨去前後の病状は藤原定家『明月記』に詳しい。また長らく生年が不詳とされてきたが、1980年代に資料(『兵範記』裏書)の発見により久安5年の生まれであることが判明した」としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
(3) 久寿元年(1154)説
長い間私たちは「平家追討令旨」を発した以仁王を式子内親王の兄としてきたが、その根拠となるものは、『山槐記』永暦2年(1161)の式子内親王の初度御禊に関する記事から推測されたものではなかったか。
「國文學 」昭和50年5月号(學燈社)の「斎院---式子内親王」における近藤潤一氏(当時北海道大学助教授)の文章から該当箇所を引用すると、
内親王の生年はつまびらかでない。が、享年については、諸家によって建仁元年(1201)正月25日と推定される。・・・中略・・・
それに『山槐記』永暦2年(1161)4月16日条に式子の初度御禊を叙して「院第三女、母儀三品季子、高倉局是也」と注していて、同腹の第一皇女亮子内親王(殷富門院)、長兄守覚法親王、次兄以仁王、妹休子内親王らの生年の間にわりこませると、まず久寿元年(1154)ごろの生誕であると考えられるのである。
以上からして、式子内親王の生年は久安5年(1149)とするのが妥当と思われ、ここに「殷富門院・式子内親王系図」も訂正し、今後私の内親王に関する記述も久安5年(1149)出生を前提に進めたい。