後白河院の娘(2)式子内親王(8)恋ひ恋ひて面影びとは法然か

 前述の法然の返書について編訳者の石丸晶子氏は著書「式子内親王伝〜面影びとは法然」で次のように述べている。



 式子内親王法然の専従念仏に帰依して久しい年月が経ち、二人はときに往来して語り合う間柄であったが、なんらかの事情で心ならずも疎遠になり、病篤いことをしった式子が、法然に臨終の善智識を求めると共に、今生でのもう一度の対面を願う往信への返事ではないか。

 さらには、式子の身の回りには専修念仏に帰依したままでは彼女の極楽往生は疑わしいと説く者がいて、式子自身がその事で深刻な不安に駆られ、病苦に加えてその魂も闇に閉ざされていたようであるとも。

そして、式子の手紙を読んだ法然は、一度は式子の枕辺に駆け付ける気になったが踏みとどまり、

「御病気ただならぬ御様子を伺い、それは大変なことになったなどと思っておりますにつけても、もう一度はお目にかかりたくも存じます。

「しかし正如房、よくよく考えてみれば、究極のところ、この世での対面はどうでもよいことです。なまじお目にかかりますと、亡骸(なきがら)に執着する心の迷いにもなる事でしよう。

「夢まぼろしのこの世で、もう一度お会いしたい、などと私も思いましたのは、本当はどうでもよいことだったのでしょう。
 そんなことは、あなたもどうかきっぱりと思召し捨てて、ただどうか、いよいよ深く往生を願う心を深めていき、お念仏にもいっそう励まれて、浄土で待とうとお考えになってください。 
 と、式子内親王に圧倒的な迫力で語りかける長い長い返書をしたためた。


 法然は何故、病苦だけでなく信仰上の深刻な悩みを抱えた臨終間近い式子に会わなかったのか。

 式子にとって法然が単に信仰上の師以上の存在でなく、また法然にとって式子が信徒以上のものでなかったら、准三后の身分を持つ斎宮内親王であり、おりしも彼女の身辺では、後鳥羽天皇の第二皇子で皇太子の守成親王(後の順徳天皇)を猶子として迎える準備が進められ、やがて守成親王が即位した暁には天皇の准母として女院号を受けるはずの高貴な女性の願いを退ける事はあり得ないばかりか非礼に過ぎる。


 法然に式子の枕辺にかけつけることをためらわせ、断念させたものこそ、
「式子の面影びとはこの法然であったのではないか。そして法然も式子の心をしっていたばかりか、彼自身も一人の男性として式子を愛する心が、心中深くに隠されていたにちがいない」と、石丸晶子氏は何とも魅力的な式子内親王法然との忍ぶ恋の物語を導き出されている。


 石丸晶子氏の説に異を唱えるのは簡単だが、私としては、「忍ぶ恋歌」の名手と讃えられる式子内親王の「真摯で一途な恋歌」は、藤原定家よりも法然に対して歌われたと想像する方が、その率直さ、その狂おしさがより現実味をおびて感じられ、そのうえとても魅力的である。


 東山大谷にある法然の住房から目と鼻の先の白河押小路殿で式子はひそやかに出家したのであるが、その頃に謳われたとされるA百首に収められた歌の中から、式子の法然への思いが伝わってくる歌も幾つかある。

・ 恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしといひにしあらず君も聞くらん
・ 恋ひ恋ひてそなたに靡く煙あらばいひし契の果てとながめよ

そして究極の忍ぶ恋歌

 ・つらしともあはれともまづ忘られぬ月日幾度めぐりきぬらん

 金春禅竹は式子と藤原定家恋物語を設定して、恋慕の執心の深さを能「定家」に結実させたが、誰か、式子と法然の忍ぶ恋を設定して能「法然」を編み出して欲しいものだ。そう、映画や歌舞伎ではなく、是非是非、能で「忍ぶ恋」を感じ入りたい。



(能「定家」の前シテ・式子内親王の化身である里女。『別冊太陽』WINTER ‘78より)