後白河院の娘(2)式子内親王(1)生まれた時の父は今様好きの第4

 鎌倉初期の代表的歌人式子(のりこ)内親王は雅仁親王後白河院)と藤原成子(しげこ、後の高倉三位)の第三皇女として生まれたが、その時の父は今様好きの鳥羽天皇の第4皇子に過ぎなかった。


 雅仁親王の初代の后が第1皇子(二条天皇)を出産後無くなった時、上臈女房として仕えていた成子は親王の寵を一身に受けて亮子内親王(殷富門院)、以仁王式子内親王を含む2男4女を相次いで出産しており、この頃の一家の暮らしは、雅仁親王皇位から遥かに離れた皇子であったことからも極めて穏やかで、式子内親王にとっては幸せな時代ではなかったかと私は想像する。


 

 また、母・成子の家系が後白河院の母・待賢門院の藤原北家公季流に繋がり、この一族は貴顕の教養という以上に和歌を嗜み院政期和歌史を彩る多くの公卿歌人を輩出させていたことからも、千載集に共にそれぞれ9首を採用された式子内親王と兄の守覚法親王歌人としての素地はこの頃に培われたと見てよいのではないか。


 ところで式子内親王の享年は藤原定家の「明月記」などの記述から建仁2年(1201)で統一されているが、生年は諸説紛々ではっきりしない。1980年代に発見された資料平信範の日記「兵範記」(裏書)により久安5年(1149)との説もあるが、「山槐記」永暦2年(1161)の式子内親王の初度御禊に関する記事などから推測して久寿元年(1154)頃とする説もある。


 もし「兵範記」(裏書)からの久安5年(1149)説を採用するなら、これまで式子内親王の兄とされてきた守覚法親王以仁王は彼女の弟となる。


また、私個人としては、式子内親王九条兼実が同い年だったという事に新たな興味を掻き立てられる。


以上は「國文學」昭和50年12月号、「斎院━式子内親王」(近藤潤一)を参考にした。