後白河院と寺社勢力(4)後白河院→ 延暦寺 ←清盛 & 鹿ケ谷事

 嘉応元年(1169)9月12日、尾張藤原成親目代(注1)政友と延暦寺領の比良野の神人との争いが美濃で起こり、神人は延暦寺を介して責任者である藤原成親の配流を訴えでた。
 ところが藤原成親といえば後白河院のご寵愛深い美形の近臣、後白河院は詳細も検討せず訴えでた神人三人を監禁したので、延暦寺の衆徒が大挙して日吉社の神輿を掲げて嗷訴に及ぶと、後白河院は直ちに衆徒を追い出すべく平重盛に命じた。


 これは、叡山衆徒と清盛配下の六波羅武士との対立の深まりを念頭に置きながら、平家一門の驕りと制御不可能になりつつある叡山の狼藉を快く思っていなかった後白河院が、この機会に平家と叡山をぶつけて一気に双方の力を削ごうとの考えから出たものであった。


 しかし、叡山との融和を目論んで自らの出家の戒師に延暦寺天台座主明雲をたてた父清盛の意を汲んだ重盛が動じない為、後白河院は止む無く12月24日に叡山衆徒の要求を受け入れて成親の備中配流を決め、他方衆徒は勝訴に喜び勇んで叡山に戻った。


 ところが、翌日の25日、後白河院は嗷訴の責任者として天台座主明雲の御持僧(注2)を停止し、28日には訴訟の取調べ責任者平時忠平信範を虚偽奏上の廉で解官配流、同日付で藤原成親の召還を決定したが、更に一転して翌年2月6日には、平時忠平信範の召還、藤原成親の配流で落着する。


(注1) 目代(もくだい):平安・鎌倉時代、国守の代理で任国で事務を取仕切る役人。
(注2) 御持僧:玉体守護の為の祈祷僧で天台・真言の僧から選任。


 

延暦寺の僧兵 「続日本の絵巻2 法然上人絵伝 中」中央公論社より)


 それから8年後の安元3年(1177)の嗷訴は、前年の加賀守藤原師高の目代で舎弟に当る師経と山王日吉神社末社である白山の神人が抗争した事件で、叡山が師高配流の訴えを出したことに始まる。


 後白河院は3月28日に師高だけを備後の国に配流して決着を図ったが、その裁定を不満とした叡山衆徒は再び日吉神社の神輿を振りかざして嗷訴に及び、この時は平重盛配下の武士達は神人たちを追散らすが、矢が神輿に命中したため叡山の激怒を買い、4月20日に後白河院は神輿を射た武士6人の禁獄とともに師高の尾張配流を決めざるを得なかった。


 ところが一転して、後白河院は5月21日に叡山の責任者明雲の伊豆配流を決定し、その夜のうちに明雲は叡山本房から別所に身柄を移されたのであるが、これは師高の父で後白河院第一の近臣西光の意を汲んだ処置とみなされている。


 この処置に憤怒した叡山衆徒は武力によって明雲を奪回するという誠にドラマチックな展開を見せるが、これは明らかに謀叛であり、国家に対する挑戦であるだけに、後白河院としても一歩も引けず、直ちに諸国に叡山末寺の荘園を押さえる処置を命じるとともに、5月28日には平清盛を呼びつけ叡山攻めの具体策を講じさせるのだが、ここに、朝敵鎮圧の責任者清盛は叡山との衝突が避けられない状況に追い込まれたのである。

 
 そんな緊迫した状況下に、何とも都合よく6月1日未明に「鹿ケ谷事件」なるものが発覚し、後白河院の近臣が次々に逮捕され、首謀者として西光法師はその日のうちに清盛に口を裂かれて惨殺され、藤原成親は再び備前に配流されるという、何人も予測できなかった展開で事は落着したのである。


 つまり、5月28日に絶体絶命の危機に追い込まれた清盛が、29日の突然の多田行綱の密告により、6月1日未明には後白河院側を一網打尽に逮捕という展開は、どうも話が上手すぎるという思いを抱いていたのは、『愚管抄』に仄めかしを記した天台座主経験者の慈恵や、その兄で『玉葉』の著者の右大臣九条兼実もうすうす何かを感じ取っていたようだ。


 これは余談だが、最近読んだ「院政の日本人」(講談社)では、鹿ケ谷事件を別の意味で平重盛が仕立てたのではと、著者の橋本治氏は自論を展開している。


で、ここで私が強調したかった事は、鹿ケ谷事件の奇々怪々さではなく、院政期末、つまり中世の初めには、朝廷・武士ですら制御不能になっていた寺社勢力の強大さである。


以上は「國文學 昭和47年2月号」學燈社掲載の「清盛と後白河法皇 ― 今成元昭」を参考にしました。