後白河院と寺社勢力(2)祇園社(中)「台記」にみる祇園社と延暦寺

 
 類稀な秀才と謳われ30歳で左大臣に昇進しながら、保元の乱で37歳の短い生涯を終えた悪左府藤原頼長は、久安3年(1147)の祇園臨時祭での平氏の郎党と祇園社(感神院)所司の小競合いが鳥羽上皇をも悩ます事態に発展した興味深い顛末を日記「台記」に下記のように記している。


6月15日 
祇園臨時際のわきたつ人垣の中で平忠盛・清盛の郎党と祇園社(感神院)の所司の間で小競合いが生じ、平氏の矢が神輿(みこし)に命中し怪我人が出た。当時祇園社を勢力下におきつつあった比叡山延暦寺)の悪僧らが忠盛以下の処分を求めて院御所に押しかけて嗷訴。

 

祇園御霊会の神輿 日本の絵巻8『年中行事絵巻』」中央公論社より)


6月28日 
延暦寺の衆徒が神輿を振りかざして祇園臨時祭の件で忠盛・清盛らの配流を要求。鳥羽法皇検非違使に命じてこれを抑え留めるように命じ、さらに夜になって延暦寺の衆徒を召して三日以内に要求を討議すると伝えて衆徒をひとまず引き上げさせた。


6月30日
藤原頼長は兄の摂政忠通と共に鳥羽法皇に招集され、祇園社(感神院)の乱闘、忠盛・清盛らの罪科の有無を協議するが、列席した重鎮の誰もが詳しく事情を知る様子も無いうえに、ひたすら穏便に事を処理しようとする鳥羽法皇崇徳上皇臨席の御前会議の面々に向かって、頭脳明晰な頼長が乗り出して、経史の薀蓄を開陳して祇園社(感神院)の悪僧及び忠盛・清盛当事者双方に厳正な処分を主張した。


 以上は棚橋光男著「後白河法皇」(講談社選書メチエ)から引用したものだが、後白河院20歳の頃に生じたこの紛争から、現在は全く仏教色を感じさせない八坂神社が祇園社(感神院)と呼ばれて延暦寺の配下にあった事がわかる。


 さらには、その延暦寺衆徒のお供をした祇園社神人※が喧嘩騒ぎを起し「祇園社の乱行はけしからぬ。感神院が天台(延暦寺)の末社というは枝葉、本分は国家の鎮守というところにある。提訴内容を審議している最中に、合戦に及ぶとは何事か」と鳥羽法皇が怒った(伊藤正敏「寺社勢力の中世」(ちくま新書)より)言葉から、本来は朝廷が祇園社に祈願して天下万民のために疫病神退散を祈る祇園祭が、事もあろうに延暦寺の勢力下にある苛立ちが読み取れる。


 

(大幣や枯枝をかざして祇園御霊会を先導する神人たち、日本の絵巻8 『年中行事絵巻』中央公論社より)


※神人(じにん、じんにん)とは、神社に隷属して神事・雑役に奉仕する下級の神職や寄人(よりうど)をさし、祇園御霊会では大路の穢物などを払う為に祭列の先導を担った。