後白河院の娘(2)式子内親王(4)忍ぶ恋・内親王の結婚比率

  詩人萩原朔太郎和泉式部式子内親王の二人を挙げ「恋愛詩人としての純粋性に於いて、他に比類なく酷似した一対の女性であったが、両者の社会的環境は大いに異なっていた」と述べ、斎院として自由の無い生活をおくった式子について「生涯童貞不犯の生活を強いられた彼女の一生は白百合のように純粋であり、和泉式部の乱行放恣の生涯とコントラストしている」と二人の違いを鮮やかに浮き彫りにしている。(『式子内親王』 錦 仁 「國文學 解釈と鑑賞」1999 5月号より)。



 では、その式子内親王がおかれた社会的環境とはどのようなものであったか。

 私たちは「源氏物語」「枕草子」「和泉式部日記」「建礼門院右京太夫集」などから、平安時代の宮廷女性は誰もが絢爛たる恋模様を展開したと思いがちであるが、話が天皇の皇女、内親王に及ぶと、一転して愛することを禁じられた空疎な生を強いられた事を知る。


 石丸晶子著「式子内親王伝」は平安時代内親王天皇の皇女で内親王宣下を受けた者)の結婚については「継嗣例」で厳しく規制され、「別勅」がない限り摂関家を始めとする臣下とは結婚できなかったと、内親王の結婚が厳しく制限されていたことを述べ、さらに、平安時代でもまだ大らかであった平安前期と平安後期に当る内乱に明け暮れた院政期との皇女の結婚比率を以下のように比較している。


○ 平安前期(桓武天皇後冷泉天皇
21人の天皇に皇女が172人   皇女の結婚率18%
奈良時代の25%に次いで高く配偶者を見つけやすかったふくよかな時代であった。


院政期(白河天皇後鳥羽天皇
9人の天皇(幼少期に配偶者を持たず崩御した二条・安徳天皇を除く)に皇女が33人、皇女の結婚率3%

結婚したのは甥の二条天皇と結婚した鳥羽天皇の皇女で母が美福門院の姝子内親王(高松院)たった一人。


 この極端に結婚比率の低い数字は、院政期は争いを避けるために皇位継承予定者以外の親王は出家して法親王となった為に、内親王が結婚しようにも対象となる親王がいなかった事を反映していると思われ、参考のために、鳥羽天皇後白河天皇所生の皇子・皇女を一覧表にしてみた。


  

 上図の唯一人結婚した姝子内親王は、政略結婚特有の不自然な叔母・甥婚が災いしてか、早々と破局をむかえ内親王二条天皇後宮を去っている。



 また、天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した斎宮や、賀茂神社に奉仕した斎院に卜定された内親王は処女性を厳しく求められ、上図にあるように後白河天皇の姉と娘は全て斎宮か斎院に卜定され、その結果生涯を独身で過ごしている。


ところで、後白河天皇の母・待賢門院は卓越した美貌で知られているが、

 

彼女の娘たちも「端正美麗、目の及ぶ所に非ず」と詠嘆したと伝えられ、
http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090514

 その待賢門院の息子を父に、同じく待賢門院の姪・成子を母に持つ式子内親王の姉妹達が美しかったことは疑いも無く、そのような美貌の女達が京のあちこちでひっそりと独身を通したとは何とも勿体無く、かつ周囲の男達にとっても悩ましいことであったろう。
 

 そんな社会環境のなかで、11歳から21歳の多感な乙女時代を斎院として世俗から隔離されて暮らした式子内親王にとって、和泉式部の様に奔放な恋を高らかに歌い上げることは望んでも許されず、忍ぶ恋に身を焦がすより他はなかったのではないか。