後白河院と法然上人(1)法然上人像「隆信の御影」(知恩院蔵)

 後白河院の皇女式子内親王法然上人を戒師として出家し「承如法」と呼ばれたことは既に述べたが、それではこの二人はどのような経緯で知り合ったのかがはっきりせず、石丸晶子著「式子内親王伝〜面影びとは法然」でも、信仰心の深い八条院法然招請した時に同宿していた式子が面識を得たのではとの推測の域にとどまっていた。


 たしかに、院政期の王朝国家が興福寺延暦寺等の権門寺社を後援する事で権力基盤を構築していたことを考えれば、治天の君後白河院の皇女式子が、それら権門寺社から目の敵にされていた法然を戒師として出家するには、白河押小路殿でひっそりと行うしかなかったと思わせるものがあった。


 しかし、色々調べてみると、権門寺社との一体化で王朝国家の維持を目指す「王法仏法」の体現者後白河院と、その権門寺社から目の上の瘤とみなされた法然上人はなかなか浅からぬ因縁で結ばれている事が分かった。


先ず、その象徴ともいえる知恩院所蔵の「隆信の御影」とよばれる法然上人像について述べてみたい。


 

(上図は『図解雑学 法然』ナツメ社より)


 この絵は、源平の争乱を生き抜いた晩年の後白河院が、法然から『往生要集』の講説を受けて感動し、院の側近で当時の似絵の第一人者藤原隆信に命じて描かせたもので、その隆信は後に法然に従って出家をし極楽往生を遂げたと伝えられている。


 下図は、やはり知恩院所蔵の「法然上人絵伝」からのもので、後白河院の御所である法住寺殿で、藤原隆信法然上人像を描いている場面。


(『法然上人絵伝 中』中央公論社より)


 次回からは、浄土宗の開祖法然上人の一代行状を絵巻物にしたものとされる、知恩院所蔵「法然上人絵伝」から後白河院法然上人の浅からぬ絆を取上げてみたい。