後白河院の娘(2)式子内親王(3)父の即位が惹き起こす一家の瓦解

 私は予てから、「源平の争乱期を挟んで30数年に亘って最高権力者でありつづけた男の娘というものは、一体どのような人生を歩むものなのか」について深い興味を抱いていた。そこで、この機会に、後白河院と彼の第三皇女・式子内親王の人生を跡付けてみることにした(年齢は数え年)。


○ 久寿2年(1155) 父29歳 娘7歳

 近衛天皇の急逝により後継の下馬評にも上らなかった後白河天皇が即位したが、これに伴い、一族から次期天皇の出産を期待されて入内した右大臣正二位・藤原公能の娘忻子(きんし)は中宮に冊立され、内大臣・藤原公教の娘蒴子(むねこ)は女御の宣下を受ける。


 しかるに、雅仁親王時代に偏に寵を得て、二男四女を産んだ式子の母で権大納言・藤原季成の娘・成子(しげこ)は従三位に叙せられ高倉三位局と呼ばれたが、出自の低さゆえか女御にはなれず、後白河後宮のはるか後方に追いやられてゆく。


 ところで、後白河天皇は好色ではあったが「箱入りお姫様」はお気に召さなかったようで、中宮・忻子と女御・蒴子に殆ど関心を示さなかったとされている。


○ 保元元年(1156) 父30歳  娘8歳

 4月に式子の長姉・亮子(10歳、後の殷富門院)が内親王宣下を受け斎宮(※)に卜定され9月に潔斎のため野宮神社に入る。


 ※斎宮伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位毎に未婚の内親王または女王から選ばれた。崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。斎宮に定められた皇女は伊勢に向かう前の一年間を嵯峨の野宮神社で潔斎する慣わしであった。


 7月11日に父・後白河天皇と叔父・崇徳上皇が敵味方に分かれて保元の乱が勃発、後白河天皇方が勝利するが崇徳上皇は讃岐に流され、上皇の第一皇子重仁親王(17歳)は仁和寺で出家する。


○ 保元3年(1158) 父31歳  娘10歳

 8月11日、後白河天皇が突然譲位し、天皇の第一皇子で式子の異腹の兄・守仁親王が即位し二条天皇となる。


○ 平治元年(1159) 父32歳  娘11歳
  
 二条天皇の即位により式子は10月25日に内親王宣下を受け直ちに斎院(※)に卜定されるが、この時、斎宮も長姉・亮子内親王に代わって次姉・好子内親王が卜定され、次の六条天皇即位の際は好子内親王に代わって斎宮に卜定されたのは妹の休子内親王であった。


 ※斎院:賀茂神社に奉仕した未婚の皇女または女王。天皇の即位毎に未婚の内親王または女王から選ばれた。


 つまり、父が天皇に即位したことにより、式子内親王の同母姉妹は全て斎宮・斎院に選ばれることになったのである(下図参照)。