後白河院と法然上人(4)満足死も極楽往生も(2)などか蓮台の迎へ

 
 【わが身五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。既に半ばは過ぎにたり。今やよろづをなげ棄てて、往生極楽を望まむと思う。たとひまた、今様をうたふとも、などか蓮台の迎へに与(あず)からざらむ】

 
(『梁塵秘抄口伝巻十』(宮内庁書陵部本)尾崎左永子著「梁塵秘抄漂游」より)

これは後白河院が『梁塵秘抄巻十』に表明した極楽往生への強い強い願望である。


 即位の前から袈裟を纏って護摩をたいていたといわれる後白河院だが、最愛の建春門院との間に生まれた皇子高倉を即位させ、翌年の嘉応元年(1169)6月17日に、「もっと早く出家したかったのだが、やっと肩の荷が下りた」と43歳で出家して法皇となって院政を開始し、その後は清盛との密な関係を維持して安元2年(1176)3月4日に盛大に五十参賀を祝された者の偽らざる心境であろうか。


 ところがその直後の建春門院の死をきっかけに、大地震、洪水、旱魃を挟んで、源平の争乱へと歴史は大きく揺れ動くのであるが、その最中においても後白河院の今様への執着は変わらず、「何かに深く執着することは極楽往生を妨げる業因」としていた当時の仏教心に対して、「今様への愛着は仏道から離れているわけではないのだから、どうして私が極楽の蓮の台に迎えられない事があろうか」と、自分に強く言い聞かせている後白河院の赤裸々な気持にも見える。

 その極楽往生を切に望んだ後白河院は、法然上人から『往生要集』の講説を受けて感動し、院の側近で似絵の第一人者藤原隆信法然上人像を描かせたことは先にも述べたが、 

http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090904


 『法然上人絵伝』は、法然上人に帰依した後白河院が、百万篇念仏の苦行を200回も積むという比類の無い善根を示した事を伝え、

 正月5日に病に臥した後白河院は、余命いくばくも無いことを悟った2月26日に法然上人を枕元に召し、駆けつけた法然後白河院に戒を授けて往生の儀式を定めた事、

 法然上人の往生の儀式に従って後白河院は念仏を怠らず、ひたすら往生を願ったが病は急変し、3月13日寅の刻(午前4時)、床の上に端座した後白河院は眠るがごとく66歳の命を絶えた臨終の場を下図の様に描いている。

部屋の中央で端座瞑目しているのが後白河院、折から御所の屋根を包むように雲が生じ、と、見る間に、その雲に乗って阿弥陀如来が来現した事が窺える。


 また『法然上人絵伝』の詞書は「3月12日戌刻(午後8時)に御仏を渡たてまつられ、13日寅の刻(午前4時)御臨終正念にして、称名相続し、御端座ねぶるがごとくして、往生の素懐をとげさせ給ひき」と叙述している。