後白河院と頼もしき姉妹(2)異腹の妹・八条院(下)平家打倒の舞台

 鳥羽院と美福門院の間に生まれた八条院翮子内親王後白河院の第一皇子守仁親王と第二皇子以仁王を手元で養育していたが、守仁親王二条天皇として践祚するに当たり准母となり、初めて后位を経ずに女院号を宣下されて八条院と称した。


 八条院は父・母から莫大な遺領の大半を受け継ぐが、これは動乱の最中にさしたる後景もなく脆弱な二条天皇政権を支える経済基盤として重要な役割りを果たし、さらには鳥羽院の唯一の皇統者である事とも相俟って、後白河院や清盛にとって無視できない存在となった。


 永万元年(1165)二条天皇が若くして幼帝(乳飲み子)に譲位して崩御した後は、後白河院と平滋子の間に生まれた憲仁親王高倉天皇)の皇位を目論む清盛の以仁王への圧迫が強まったこともあって、後白河院高倉上皇安徳天皇から外れた皇統の庇護者になっていく。実際、以仁王は出家もせず元服した為に皇室支配を目論む平家の目の上の瘤となり、清盛・平滋子らの妨害で親王宣下すら得られなかったのである。


 そのうえ、当時は、後白河院の姉の上西門院に蔵人として仕えた源頼朝に見られるように、諸国の源氏の中には、女院庁に出仕して蔵人や判官代に任ぜられるものが多く、八条院が反平家勢力の拠点になっていくのも自然な流れであったといえる。


 治承4年(1180)に清盛が強行した安徳天皇即位は、皇統上の異を唱える皇族・諸国の武士・寺社勢力などの間に反平家の気運を一気に高めることになり、その気運に乗じて以仁王に平家打倒の挙兵を勧めた源頼政は八上院に仕えており、さらにその以仁王が下した「平家追討令旨」を源頼朝を始め諸国の武士に伝えたのは八条院の蔵人を務めた源行家であった。


後白河院」((財)古代学協会編 吉川弘文館)によると、八条院が「平家追討の舞台であった」事について、

(1)以仁王の「平家追悼令旨」を旗印に挙兵した源頼朝に早い段階で参向した千葉氏や下河辺氏のいずれもが八条院領荘園を本領としていたこと、

(2)佐竹征伐に進軍した源頼朝常陸国府で源行家兄弟と面会したのも単なる親族の邂逅ではなかったこと、

(3)この時期に源行家がわざわざ八条院蔵人に任じているのは、以仁王の令旨の伝達対象が諸国の源氏だけでなく八条院領荘園の在地武士であったこと、

と、真に興味深い指摘をしており、安徳天皇の正当性に八条院が同意するはずがないことを考えれば頷ける事である。



ところで、後白河院八条院との関係であるが、


 近衛天皇二条天皇の即位の経緯を考えると、多くの場合二人は互いに距離を置いていたようだが、清盛の圧迫で後白河院の足場が弱まった時には、院は積極的に女院に助けを求め、しばしば女院の拠点・八条殿に居を移して院御所としていたようで、藤原俊成・定家父子が女院を通して後白河院の知遇を得たのもそんな時であった。


 ともあれ後白河院は、源頼朝と太いパイプを持つ同腹の姉・上西門院と、平家に反感を抱く異腹の妹・八条院という、頼もしい姉妹の支援を受けて平家との激しい争いに決着をつけたのである。