後白河院と寺社勢力(5)保元新制が狙い撃ちする悪僧・神人

 保元の乱の戦後処理によって反後白河勢力を一掃し、摂関家の弱体化に成功した法体の少納言藤原信西が、政治は二の次で乙前の指導でせっせと今様に励む後白河天皇の名前で推し進めたのが、「保元新制」による寺社の悪僧・神人対策であった。

 
 保元2年(1157)発布のこの新制は、第1条で後白河天皇の即位後に宣旨を受けずに立てた荘園を停止し、第2条で権門寺社荘園の課税・課役逃れ行為を厳罰に処するなど、肥大化する権門荘園の制限を謳っているが、真の狙いは下記条文に見られるように大寺社の悪僧・神人を取締る事にあった。


第3条 伊勢大神宮・石清水八幡宮賀茂社(上賀茂・下賀茂)春日社・住吉社・日吉社祇園社などの諸社の神人の濫行を停止し、公民が新たに神人となることを禁ずる。


第4条 興福寺延暦寺・熊野山・金峯山の悪僧の濫行を停止する。


第5条 諸国の国司は、部内の寺社が、あるいは霊祠の末社と称し、あるいは権門の所領と号し、神社社は数千人を神人とし、寺は多数の講衆を定めて郷村に横行して吏務(村役人の仕事)を妨げることを禁ぜよ。


 ここで注意すべきは、権門寺社のトップである天台座主興福寺別当東大寺別当や学侶・衆徒など、貴族・武士出身の高・中級僧侶神職には一切触れていないことである。


 それでは何故、悪僧・神人など下級僧侶・神官対策が、発足間もないない後白河天皇体制の最優先課題に浮上していたのか。それらを次回から展開する前に、一つのエピソードを藤原宗忠の日記「中右記」から引用しておきたい。


 「天下の政を執る事57年、意に任せ法に拘らず除目叙位(昇給昇格人事)を行ない給う」白河法皇が77歳まで長生きして太治4年(1129)7月7日に崩御したのだが、その白河法皇は日頃から自分の没後は「荼毘礼を行うべからず。早く鳥羽の塔中石に納め置くべきなり」、つまり、火葬をしないで生前の形を残して鳥羽の塔の下に遺骸を埋めよ、と、近臣の藤原長実に指示していたが、死ぬ半年前になって意向を変えて長実に次のように仰せ付けた。


 「以前山門(延暦寺)大衆と故関白師通が対立した時、師通の死後、大衆がその遺体を掘りあばいて処刑しようと相議したと聞くが、もし我が屍を葬らなければ、そのようなことを思い立つやからもあるであろう。そこでたちまち多年の宿意を変えて、にわかに火葬の準備にかかり、雑具類をととのえているが、布二百段ほど不足であるから、汝が求めて進めよ」と。


 白河法皇の遺言をうけたまわった長実が、法皇が「没後の支度等」を一紙に書いてお蔵に納めていたのを取り出して見たところ「榑(くれ 山出しの板材)・炭・薪・結料蔦」などが既に配備され、それから20日も経たないうちに法皇は崩じたので、かねてから死期を悟っていたのではと長実は「中右記」の著者の同僚源師時に語っている。


 白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、是れ、朕が心に従わざる者」と嘆き、これが「白河法皇の天下の三不如意」として現在に語り継がれるほど、悪僧は中世を語る上で無視できないばかりか、歴史を動かす大きな存在であったといえる。