後白河院と法然上人(2)『如法経供養』の先達を法然上人が勤める

 「法然上人絵伝」は、後白河院が文治4年(1188)8月14日に白河押小路殿(当時の院御所)で修した、『如法経(にょほうきょう)供養』で、延暦寺園城寺東大寺興福寺などの高僧を差しおいて、法然上人が先達を務めた様子を色彩豊かに描いている。


 如法経とは一定の法式に従って法華経の経文を書写するもので、この時の『如法経供養』は、後白河院、妙音院の入道相国藤原師長法然とその門弟、延暦寺園城寺の高僧を含む16人の御経衆という錚々たる顔ぶれであり、

 まず、8月14日に前方便(まえほうべん)を始めて、9月4日御料紙迎え、9月8日写水迎えの儀式を挟み、9月11日の筆立て(書写開始)で16人の経衆が写経を行ない、9月13日に叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に写経を納めるまでの、一連の厳かな大イベントである。


(1)8月14日に白河押小路殿で行われた前方便の初日。

 

壇の前の脇机と磬架(けいか)の間で後姿を見せているのが先達を務める法然上人、その左後が願主の後白河院のようである。


(2)9月11日に白河押小路殿で行われた筆立(写経)。

   

白河押小路殿に臨時に設けられた道場には16脚の経机がおかれ、それぞれの前では経衆が一心に写経を行っている。
 この写経は翌日の10時ごろまで行われ、誤植や誤脱が許されない上に、写経に不浄な息がかからないように白紙で口を覆っているのを見ると厳しい修行だ。それにしても、院御所なのに市井の人たちが集まっているのが今様好きの後白河院らしい。


(3)9月13日に叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)に写経を納める。

 
 
束帯姿の上達部が奏する楽に調子を合わせる地下の伶人や美少年達。仏教に美少年はつきもののようです。


 
自ら登山をして叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の如法堂に入御し、行智律師から経を受け取る後白河院。経は後白河院の手から再び円良法印に渡され供養は終わる。


 ところで、棚橋光男著「後白河法皇」(講談社選書メチエ)では「後白河の行動一覧(践祚後)」として天皇践祚時の久寿2年(1155)から崩御時の建久3年(1192)までの克明な移動記録を載せている。

 これは、棚橋光男氏が安田元久著「後白河天皇移徏(いちょく)一覧」(『後白河上皇』吉川文学館)を補訂し必要情報を補って作成したもので、内裏や御所に鎮座する従来の君主とは大きく異なり、信仰心の篤さと共に好奇心の塊と化して活発にあちこち動き回る後白河院の型破りな性格を物語る興味深い行動録であるが、文治4年の行動で、『如法経供養』が確認できる。

【文治4年(1188)(62歳)】

1.8 法勝寺(修正会)・最勝寺 1.16 日吉社(参籠) 3.2 新熊野社(参籠) 3.11 醍醐(清滝会) 4.6 新熊野社(参籠) 4.28 鳥羽(石清水臨時祭見物) 5.12 白河押小路殿(恒例供花) 6.16 藤原兼雅五条邸 6.25 日吉社(参籠) 7.2 鳥羽殿(鳥羽天皇忌日) 7.3 法勝寺(御八講) 8.15 白河押小路殿(如法経前方便始) 9.13 比叡山横川如法堂(如法経十種供養) 9.15 四天王寺 10.6 熊野精進屋 10.20 石清水八幡宮・熊野社 12.21 八条院御所