後白河院と寺社勢力(9)国守(2)清少納言と紫式部の父の場合

 それでは下級貴族の希望の星「国守」とは一体どのようなポストであったか。

 国守は中央の高級貴族から見れば地位は確かに低くいが、県知事・県警本部長・県税務署長・地方裁判所長の機能を一手に集中し、任国においては一国一城の主といってもよい強力な権限を有し、豊かな国に赴任すれば一財産築けるばかりか、専制支配を強めて住民から搾り取れば相当の私腹を肥やすことが可能な旨みのある役職であった。

 とはいえ、競争率が激しいこのポスト争い、易々と手に入るものではない事が、共に五位の下級貴族であった清少納言紫式部の父から推し量る事が出来る。


清少納言の父の場合】

 柿本人麻呂小野小町と共に三十六歌仙に挙げられる歌人清原元輔清少納言の父として知られるが、国守就任可能な従五位下に叙せられたのが62歳。数え年であるとしても、現在の私たちが定年を迎える頃から彼の真のキャリアは始まるのである。

 従五位下に叙せられ河内権守(国守の補佐)を務めた後、待望の周防守(国守)の役職を得て5年の任期を全うしたが、その後は薬師寺回廊造営の功績で従五位上に叙せられたものの6年間もポストレスの憂き目にあい、やっと79歳にして京からはるか離れた九州の肥後守に任じられ、赴任3年後に彼の地で没している。

 そういえば、枕草子第22段「すさまじきもの」で、今度こそ受領(国守)間違いなしと、除目前夜に下馬評の高い下級官僚の邸に親戚やかつての使用人が遠方から集まり、前祝で散々大騒ぎした挙句、一夜明けても音沙汰なく「やはりことしも前受領か」とつぶやきながら招かれた人たちがこそこそと消えてゆく、この寒々しい場面描写は案外彼女の生活体験から生まれたものかもしれない。


紫式部の父の場合】

 長徳二年(996)正月の除目で従五位下紫式部の父藤原為時は最下級の淡路守に任じられて大いに失望し、他方で、一等国の越前守に任じられた従四位上の源国盛は一族を挙げて大いに喜んだ。

 しかし、当時漢文学者として著名であった藤原為時は諦めきれず、失望した自分の気持ちを巧みな漢詩に託して後宮女房を通じて一条天皇にお目にかけたところ、その悲痛な気持ちに心を動かされた天皇は為時を気の毒に思うあまり涙ぐんで食事ものどを通らない。

 それを見かねた公卿筆頭の地位にある右大臣藤原道長は直ちに国盛に辞表を書かせて、代わりに為時を越前守に任ずると公表したのである。為時が望み通り大国の越前守を得たのは全く彼の漢詩学者というスペシャリティのお蔭であったが、他方、被害を受けた国盛は悲痛から病に臥せり、その秋にやはり一等国の播磨守を任じられたが既に時遅く彼は病死してしまう。

 ところで、父藤原為時が越前守として赴任した時、20歳くらいだった紫式部も為時に従って越前に行ったと見られ、彼女が男に生まれなかったことを常々嘆いていた父は、娘の書く「源氏物語」にも大いに力を貸したといわれている。
 


(「紫式部日記絵巻」式部の局を訪う藤原道長 院政期の絵画展カタログより)