後白河院と法然上人(3)満足死も極楽往生も(1)満足死

 今や100歳以上の人口が4万人に達し、いよいよ長寿社会になりつつあるわが国において、誰もが望むことは、寝たきりで長い老後を過ごすより、床についても1週間、それが叶わなければせめて半年くらいで、眠るようにあの世にいけたらということではないか。

 高知県佐賀町(現黒潮町)の拳ノ川診療所の疋田医師が、寝たきりゼロに取組んだドキュメント、奥野修司著「満足死〜寝たきりゼロの思想」(講談社現代新書)を読んで、今から817年前に崩御した後白河院こそ、まさにその「満足死」の体現者ではなかったかと思う。

 
 建久2年(1192)12月下旬に病に倒れた後白河院は、翌年の建久3年3月13日に崩御するのだが、その様子は色々な史書に記されているが、ここでは、鎌倉幕府側から書かれた『吾妻鏡』、後白河院に終始冷笑的な態度で臨み頼朝との同盟で念願の関白になれた九条(藤原)兼実の日記『玉葉』、その九条兼実の家司でありかつ後白河院の皇女式子内親王にも仕えた藤原定家の「明月記」から見てみたい。

(1) 『吾妻鏡

【3月16日
 未の刻に京都の飛脚到着。去る13日寅の刻、太政法皇後白河院)六條殿にて崩御す。御不豫(病気)は大腹水と。大原本成房上人を召し御善智識となす。高声に御念仏七十反、御手に印契を結び、臨終の正念、居ながら睡るが如く遷化(高僧の死)し給う(後略)】

と、死の間際に今様と経を唱える声明で鍛えた美声(と伝えられている)で高らかに念仏を70回も唱えて、眠るが如く往生した様子が記されている。


(2)『玉葉

【3月13日
 この日寅の刻、太政法皇、六條西の洞院の宮に崩御(御年六十六)す。鳥羽院第四皇子、御母は待賢門院、二條、高倉両院の父、六條、先帝、当今三帝祖なり。保元以来四十余年天下を治(中略)、善智識上人湛敬(本成房)、十念具足、臨終正念、面を西方に向け、手は定印を結び、決定往生更に疑わずと(後聞、西方を向き給わず、巽方を向き、頗る微笑す。)】と、

ここでも自らの成仏を露ほども疑わず、念仏を唱え、笑みを浮かべて大往生した様子が述べられている。


(3)『明月記』

【3月10日 
 天晴、(中略)法皇夜前より又六借(むつかし)く御(おわ)すと云々、今夕後鳥羽(天皇)の行幸延引す、

3月11日
 夜より雨降る、終日止まず、夜に入りて大風、心神違例、蟄居す、(中略)院辺又物騒と云々、但し指したる御事に非ず、昨今御増有り、

3月12日
 天晴、巳時許(みのときばかり)、殿下(九条兼実)に参る、大将殿に参ぜしめ給う(御布衣)、殿下即ち御院参、右府(右大臣)見参せらるる、良(やや)久しくして御退出(中略)、御隋身(みずいじん)・御牛等、番々伺候すべき由、仰せらる、火急の気と云々

3月13日
 天晴、未明、雑人云く、院既に崩御す、或る説に云く、亥の刻許りに御気絶し了んぬ、而るに秘せらるるの間、人知らずと云々。(中略)即ち束帯を着し、先ず関白殿(九条兼実)に参ず。押小路洞院大路に於いて、御車に逢ひ奉り、即ち下車し、御共に参ず(中略)。法皇御臨終の儀、更に違乱無し、夜前戌時許り御仏を渡し奉らる、其の後、御念仏、遂に眠るが如く終らしめ御ふと云々)】(『藤原定家の時代』五味文彦 岩波新書より)。


と、臨終の間際まで念仏を唱えその後眠るように成仏した様が描かれている。


 下図は藤原定家の「明月記」(『冷泉家の至宝展』カタログより)であるが、上段は第一巻の建久3年(1192)3月・4月の分で、3月13日の条には後白河院崩御とその後の仏事の様子が詳細に記され、下段は第二巻で建久7年4月のみの記述である。


 また、崩御の3週間前の2月18日には、前日に「事の外辛苦し給ふ」病状であったも拘らず、雨の降る中を見舞いに訪れた孫の後鳥羽天皇を目にして元気が出たのか、後白河院は後鳥羽の笛に合わせて今様を歌い、後鳥羽が内裏に還御すると、折り返し遺領処分となる遺詔を自らしたため、丹後局を使者として後鳥羽天皇に届けている。


その遺詔は、
・ 前斎宮殷富門院亮子内親王押小路御所
・ 宣陽門院覲子内親王丹後局腹):六条殿御所・長講堂とその所領
・ 前斎院式子内親王:大炊殿・白河常光院・その他三ヶ所の荘園
・ 前斎宮(好子内親王?):仁和寺花園園
後鳥羽天皇法住寺殿、蓮華王院、六勝寺、鳥羽寺等
と、なっており、

 これに対して一貫して後白河院を批判し続けてきた九条兼実は、遺領の大部分が後鳥羽天皇に与えられたこともあり「まことに穏当な処分である」と評価ししている。

 九条兼実のこの安堵は、後白河院の父鳥羽院が、遺領の大半を美福門院の産んだ八条院に譲ったために、後白河院は裸同然の厳しい経済基盤から天皇としてスタートせざるを得ず、この時の鳥羽院の遺領処分が後の保元の乱に繋がったからである。


 ここで私は、「満足死」の条件として、自分の死後に家族・一族が争いを起さない遺産処分を生前にきちんとしておく事も挙げておきたい。特に企業経営者の場合は、その企業の社員が大変なことになる。

 また、自分の家で家族にみとられる事が「満足死」の大きな要素とするなら、娘の殷富門院亮子内親王式子内親王、覲子内親王(宣陽門院)、息子の守覚法親王法、晩年の寵妃丹後局と家族一同に見守られて臨終を迎えたという点でも、後白河院は天晴れ「満足死」を遂げたといえるのではないか。