後白河院と寺社勢力(3)祇園社(下)叡山(延暦寺)の支配下に

 感神院祇園社は10世紀半ばまでは興福寺末寺であった。それを叡山(延暦寺)中興の祖といわれる天台座主良源が、時の権力者で右大臣の藤原師輔の信任を背に、度重なる大火で焼失した堂塔を再建するとともに荘園など寺領を拡大して、祇園社感神院その他を延暦寺の末寺・末社編入したとも、興福寺との激しい武力衝突を経て強奪したとも言われている。


 仮に藤原師輔の後ろ楯があったとしても、その後も相次ぐ興福寺との争いを考慮するなら、そうそう平和裏に事が運んだはずもなく、良源は中央政権への叡山の影響力を強める為にも師輔の息子尋禅を叡山に引き取り、後に自分の後任の天台座主に据える等、世俗的な政治力を発揮している。


 因みに、山王権現とも呼ばれる大津市坂本の日吉社菅原道真の怨霊を祭る北野社も延暦寺末寺であり、藤原氏氏神である春日社は興福寺末寺、手向け山八幡宮東大寺末寺であった。


 中世は仏教の時代で、中でも密教が中心であり「神は仏の分身の一つの仮の姿」として一段低く見られていたから、感神院祇園社のように、神社の神事を僧侶が行う事例も多く、このような「神官」を社僧と呼び、これが『神仏習合』の姿であった。


 しかし、仏は祟らないが神は祟る。
神の乗り物「神輿」は朝廷・公卿を呪術的に威嚇する上で大きな武器となりうる。その効用を知った延暦寺興福寺の僧兵は、日吉社や春日社の神輿を振りかざして度々朝廷に押しかけて無理難題を吹っかけた。それに対して公家はただおろおろして言いなりになる他は無かったのである。


 祇園社にとって叡山末寺であるという事は著しく従属を強いられることであり、嗷訴に際して叡山が日吉会を中止するとともに連動する祇園会の中止を指令すれば従わざるを得ず、叡山が日吉社の神輿をかかげて朝廷に押しかける時には、祇園社が神輿が着座する場所となり、嗷訴の進発基地にならざるを得なかった。


 とはいえ、平安中期までは、朝廷が主要な16の神社に奉幣する「16社制度」から洩れるほど目立たない小神社に過ぎなかった祇園社が、長暦3年(1039)に22番目の日吉社と共に21番目に加えられて「22社制度」の一員となり、その後は京を代表する権威ある神社として栄えたのは叡山の力によるところが大であった。


参考文献は以下の通り。

「寺社勢力の中世」伊藤正敏 ちくま新書

 


「日本の中世寺院」伊藤正敏 吉川弘文館

 


「寺社勢力」黒田俊雄 岩波新書