後白河院と文爛漫(5)法皇も書く(5)近臣残照

  仁安4年(1169)2月、43歳の後白河院が最後の俗体で出家のいとまで下鴨神社を参詣した時、神社前の梅の木に降りかかる雪と白い梅との区別がつかないほどで、さらに朱塗りの玉垣までも白く辺り一面が白妙の風情であった。

さて、法会も御神楽、法華経・千手経転読と果てたのち、風情に誘われて藤原成親が平調(※1)で笛を吹き始め、次いで代々声楽の家柄の源資賢が「青柳」から初めて「更衣」「いかにせん」と催馬楽(※2)を歌い、次に後白河院が今様を歌いはじめた。

・春の初めの梅(むめ)の花
・喜び開けて実となるとか  
ここで、先の資賢が第三句から
・御手洗川の薄氷
・こころとけたる只今かな

と続けて、「まったく時宜にかなってめでたかりき」と後白河院を喜ばせている。

 藤原資賢は本来の第三句「お前の池なる薄氷」を、下鴨神社の境内を流れる御手洗川に変えて歌い、その当意即妙さを後白河院が讃えたものだが、私が『梁塵秘抄口伝集巻十』の中でも、法住寺殿での今様会、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090211)の場面と、この場面が好きなのは、「後白河チーム」とでも言いたいほど今様で繋がった後白河院と近臣との阿吽の呼吸ぶりが生き生きと描写されているからである。

 『梁塵秘抄口伝集巻第十』の特筆として、後白河院が「和漢の間比類なき暗主である」と酷評した藤原信西さえも「一度聞いたことは絶対忘れない」と認めざるを得なかった驚くべき記憶力を発揮して、今様仲間として常に後白河院と行動を共にした藤原成親・源資賢・平業房・平康頼を始めとする近臣一人一人をまるで舞台を見るように生き生きと描写している事が挙げられる。


 (上図青書が後白河院の近臣)

 彼らの多くは、後白河院が即位の見込みのない四の君雅仁親王の頃から、自らの行く末すら定かではない鬱々とした気分を分かち合って今様に明け暮れた仲間でもあったのだが、図らずも雅仁親王後白河天皇として政治の表舞台に引き出されたことから、彼らも摂関家の衰亡と武者の台頭という動乱期の治天の君の側近として激流に立向い、ある者は再々の解官の憂き目にあい、そして藤原成親平業房・法師蓮浄は鹿ケ谷の陰謀の咎で平清盛に処刑され、俊寛と共に鬼界ケ島に流された平康頼は赦免されるも出家したのであった。

 そして辛うじて瀬戸際で王権を維持した晩年の後白河院としては、今様仲間として彼ら近臣と過ごした良き日を思い起こして『梁塵秘抄口伝集巻十』に記述する事で彼らへの哀惜の念を表明して世に知らしめたかったのではないか。

(※1)平調(ひょうでう):現在のホ長調に近い。

(※1)催馬楽(さいばら):雅楽の歌物(うたいもの)の二曲種の一種。篳篥(ひちりき)・笙(しょう)・筝・琵琶などを伴奏にして数名で斉唱する声楽曲。

  
引用ならびに参考文献:『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』 榎 克朗 校注