後白河院と文爛漫(10)公卿も書く(5)『中右記』(5)藤氏と

 藤原宗忠は天永4年(1113)3月30日に当時の警察裁判機構の長官である検非違使別当に補任され永久4年(1116)5月1日に辞任しているが、この別当就任に関する『中右記』の記述は当時の社会のありさまを浮彫りにしてなかなか興味深いものがあるので幾つか取り上げてみたい。


(上図は「国宝 伴大納言絵巻」に描かれた検非違使

 検非違使別当就任一ヶ月後の閏3月29日勃発した延暦寺興福寺の対立が、興福寺を氏寺とする藤原公卿に連なり、かつ摂政・忠実と縁戚にあった宗忠を苦境に陥らせた。

 この対立の経緯は、興福寺の大衆が入洛の際に延暦寺末寺の祇園社神人を侮り礫で彼らの建物を破損したことへの報復として、延暦寺の大衆が興福寺末寺の清水寺に大挙して押しかけて堂舎を破壊し、その上、大衆4百〜5百人が神人を従えて院御所北御門周辺に集結して、興福寺権小僧都・実覚の配流を要求して大声で喚き散らした事である。

 当時の白河法皇の御所は寵臣の院別当播磨守・藤原長実邸にあり、鳥羽天皇の内裏も近接していた事から、院御所と内裏に多数の武士が警固していたのだが、「怒髪天を衝く」延暦寺大衆と祇園社神人の激しい怒りにさすがの武士団もたじたじであった。

 そんな騒動に囲まれた院御所では、公卿が鳩首凝議(※1)の場を持ったものの、氏寺・興福寺高僧の流刑を突き付けられた藤氏側公卿は沈黙を守り、警固の総責任者である検非違使別当の宗忠も「心中恐れありて一言を加えず」という有様であった。

 しかし宗忠の心中は、本来大衆の訴えは必ず訴状が上奏されてしかるべきで、今回は祇園社神人の被害報告書だけで、興福寺僧・実覚の流刑に関しては口頭のみであることから、これでは手続き上は提訴とは認めがたいという不満であったが、それすら口にできなかったのであった。

 こうしては凝議は結論に至らず、白河法皇の強い意向を受けた大蔵卿・藤原為房が処分の意見を述べて興福寺僧・実覚の罪科が決定され、これを聞いた延暦寺大衆は意気揚々と山へ引き上げたのである。

 当然この決定を興福寺側が受け入れるはずもなく、興福寺大衆が蜂起して入洛するという噂が流れる中で、4月6日に摂政・忠実が三カ条からなる興福寺奏状を忠実に伝えて方策を検討していた翌日、興福寺所司(※2)から寺家(※3)の大訴のため近日上洛するから藤原氏公卿一同はその用意をしておくようにとの通告が届いた。

 院政期は僧兵・悪僧が跋扈する時代で、法皇だけでなく摂関家も氏寺の僧兵には手を焼き、道長が「いみじき非道の事も、山階寺(※4)にかかりぬれば、又ともかくも、ひともの言わず、山階道理とつけておきつ」と嘆いた状況がさら強まっていたのである。

 そして4月29日には興福寺僧兵が南都を出発したとの噂が、翌30日には甲冑に身を固めた延暦寺大衆が京の東河原に到着し、他方、興福寺大衆が宇治南返に到着といった噂が飛び交う中、遂に30日の申の刻(午後3時〜5時)頃、官軍と興福寺大衆が宇治で合戦に及び双方に死者を出すに至った。

 この官軍とは、本来は合戦回避のために白河法皇検非違使平正盛源重時平忠盛ら武者を中心に編成したもので、双方が睨み合っている間に、たまたま春日社の神鹿が現れて興福寺側が躊躇している隙に官軍兵士が矢を放ったことから、興福寺大衆・俗兵士・金峰山(興福寺末寺)法師腹がいきり立って数刻の合戦に発展したということであった。

 この件が藤原宗忠に忸怩たる思いをさせたのは、白河法皇平氏を中心とする検非違使からなる官軍を編成した際、検非違使の長たる宗忠に一言の知らせもなかったことである。

 それについて宗忠は、「ただ検非違使派遣は別当に仰せられるべきなり。しかるに今度今度別当に仰せられず。すこぶる心を得ずといえども、興福寺大衆を射られおわんぬ。予、仰せ下さざるは何事かこれあるや。かくのごとき時、一言を加えず。ただ中心(心中)を慎しむばかりなり」と『中右記に』不満を宣べている。

私見だが、この出来事は白河法皇摂関家と藤氏の力を削ぐために平氏の力を恃みとしていたことを如実に示している。

(※1)鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ):人々が顔を突き合わせて評議を凝らす事。

(※2)所司(しょし):僧侶の職名。上座・寺主・都維那の称。三綱。

(※3)寺家(じけ):?寺。堂塔を含めて云う。?寺中に住む僧。

(※4) 山階寺(やましなでら):興福寺の旧称。藤原氏の氏寺であったことからその権勢を背景にいかなる非理・非道も押し通していた。


引用並びに参考文献 『中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田芳美 (株)そしえて