後白河院と文爛漫(6)公卿も書く(1)『中右記』(1)二

「そもそも大行皇帝八歳即位、九歳詩書を携え、慈悲性に稟け、仏法心に刻む。凡そ其の在位二一年間、罪を退け賞を先とし、仁を施し恩を普む。喜怒色に出さず、愛悪掲げず。(略)この時に当たりて父母を喪ふが如し。我君才智漸く高く、巳に諸道に通ず。なかんずく法令格式の道、絃管歌詠の遊、天性授かる所往古に愧(は)ぢず。(『百代の過客』ドナルド・キーン著 朝日選書より引用)」

 以上は『中右記』において著者藤原宗忠が嘉承2年(1107)7月19日に29歳の若さで崩御した堀河天皇に哀悼の意を表して述べたものである。

 それもそのはず、康平5年(1062)に御堂関白藤原道長の次男・堀川右大臣頼宗直系の曾孫という家柄に生まれながら、昇進に恵まれず主流の華やかな出世を横目にしながら鬱々としていた36歳の藤原宗忠に、永長2年(1097)4月30日に思いもかけず内蔵頭補任という栄誉を与えてくれたのが19歳の若き堀河天皇であったからである。

 『中右記』によれば、ある日天皇から『汝を内蔵頭(※1)にと考えているがどうか』との下問をうけた宗忠が、『内蔵頭となる者は、蔵寮頭、蔵人頭あるいは弁官・近衛の将を勤めた者か、あるいは、藤原顕綱朝臣の後に勤めた8人の者はすべて受領であり、私のごとき下官がお引き受けできる任ではございません』と再三辞退したにもかかわらず、重ねて天皇から『親昵を成す人(親しみを感じる人)を内蔵頭に任じて全く隔てなく召し仕いたい』と推されて、彼は『ただ叡慮のままに』と答えて受けると共に、自分が天皇の「親昵人」に列していることを知り、「これ、大慶なり」と感激している。

 さて、時は移り太治4年(1129)7月7日、77歳の長寿を以て崩御した白河院に関して権大納言の地位にあった宗忠は同日付『中右記』に以下の文章をしたためている。、

後三条院崩後、天下の政を乗(と)ること五十七年、意に任せ法に拘らず除目叙位(※2)を行い給う。古今未だあらず。陽成院ひとり八十一年に及び給うといえども、天下を知ろしめさず。いたずらに廃主たるなり。このほか七十七に及ぶ君いまさざるなり。(略)威四海に満ち天下帰服す。幼主三代の政を乗り、斎王(※3)六人の親となる。桓武より以来絶えて例なし。聖明の君、長久の主というべきなり。ただし理非決断、賞罰分明、愛悪を掲焉にし、貧富顕然なり。男女の殊寵多きにより、すでに天下の品秩破るるなり。よって上下衆人心力にたえざるか(『中右記〜躍動する院政時代の群像』戸田芳美 そしえてより引用)」

 ここには、堀河天皇崩御に示したほどの哀悼の念はつゆほども感じられず、むしろ「意に任せ法に拘らず除目叙位(※1)を行い給う」「愛悪を掲焉にし、貧富顕然なり。男女の殊寵多きにより、すでに天下の品秩破るるなり。よって上下衆人心力にたえざるか」の文章からは、長い白河院政下で、かつては蔑まれた受領層の急激な台頭により、ますます脇に追いやられてゆく摂関家及び彼らに連なる一族のいら立ちが感じられるのであるが、 これは単に息子の堀河天皇と父親の白河院の性格によるものだけとは言えない。

中御門右大臣藤原宗忠が寛治元年(1087)から保延4年(1138)の50余年に亘って記した『中右記』こそ、律令国家の崩壊と共に幽玄の御簾から姿を現した天皇摂関家から政を取り戻し、退位した天皇が自ら後継者に息子を指名して「治天の君」として専制支配の体制を築いた時代であり、まさに、白河院から後白河院に至る院政期の前半に当たる白河院治世下の出来事を詳細に記した貴重な記録なのである。


(上図は院政期の皇統。『中右記』の作者・藤原宗忠白河院政下の堀河・鳥羽・崇徳の三天皇に仕えた)。

(※1)内蔵頭(うちくらのとう):律令制官司のひとつで、宮中の御料を収納する内蔵寮(くらりょう)の倉庫を管理する長。

(※2)除目叙位(じもくじょい):除目は平安時代以後の任官の人名を記した目録の意、叙位は位階に叙する、あるいは、叙せられる事。

(※3)斎王(さいおう):いつきのみこ。即位の初め伊勢神宮賀茂神社に奉仕した未婚の内親王または女王。賀茂斎院に選ばれた後白河院の第三皇女式子内親王がよく知られている(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090616)。