後白河院と文爛漫(8)公卿も書く(3)『中右記』(3)田楽狂乱(

(3) 嘉保3年(1096)5月〜7月 永長大田楽

「この10余日の間、京の雑人、田楽をなし、互いに以て遊興す。なかんずく昨今、諸宮諸家の青侍下部等、皆以てこの曲をなし、昼はすなわち下人、夜はまた青侍、皆田楽をなし、道路に充盈す。高く鼓笛の声を発し、すでに往反の妨げとなる。いまだ是非を知らず。時の妖言の致す所か。事を祇園御霊会に寄せ、万人田楽制止する能わざるなり」

これは後に「永長の大田楽」と呼ばれる田楽騒動について藤原宗忠が6月12日に『中右記』に記したものである。

 この時の田楽騒動は、6月14日の祇園御霊会を控えて6月上旬ごろから盛りをみせていたが、さて、その盛り上がりを担ったのはどういう人々であったかといえば、藤原宗忠は「昼の下人田楽、夜の青侍田楽と昼夜の担い手が異なって都市平民と官衙権門従属民がそれぞれ集団を編成して参加し」「院蔵人町童部70余人、内蔵人町童部30余人、田楽50村ばかり、近代第一の見物」と書き、同時代の大江匡房(※1)は「諸坊諸司諸衛、おのおの一部をなし」と『洛陽田楽記』に記し、田楽がその所属ごとに単位グループを編成して洛中を練り歩いたことを表している。 

つまり、京の雑人(下人)であれ、諸権門(寺社を含む)の青侍や下人たちであれ、彼等こそが京在住者の主力であり、大田楽の担い手であったのだ。


   

(上図は田楽法師を取り巻く人々『年中行事絵巻』中央公論社より)

  しかし実際は、京在住者だけが田楽騒動に連なったのではないことは、「村里より初めて公卿に及ぶ」と大江匡房が『洛陽田楽記』で述べ、『古事談』(※2)が「郷々村々田楽、或いは貴所に召され、或いは神社に参詣す」と述べた事からも伺える。

7月になると田楽騒動は雑人(下人)、青侍・下郎を平民を越えて公卿にも及び、

「さる5月より近日に及び、天下貴賤、毎日田楽をなし、或いは石清水・賀茂へ参り、或いは松尾・祇園に参る。鼓笛の声、道路にみち溢る。これ神明好むところと称し、万人この曲をなす。或いは夢想の告げありて、にわかになす輩あり」と

7月13日付『中右記』に見られるように、6月14日の祇園御霊会を挟んで約2カ間もの間、貴賤上下を問わず京の主な住民が参加して連日連夜鼓笛の音を賑々しく響かせて京中を練り歩き、石清水・松尾・祇園などの諸社にも繰り込んでいったのであった。

 
 

(上図は祇園御霊会神幸当日の賑い『年中行事絵巻』中央公論社より)

 貴所で催された侍臣田楽の狂乱ぶりを、「権中納言基忠は九尺高扇を捧げ持ち、通俊は両腕に平藺傘を着け、参議宗通(※3)は藁尻切をはき、そのほか、あるいは裸形で腰に紅衣を巻き、あるいは髻を放って田笠をかぶっていた」と大江匡房は『洛陽田楽記』に描写している。

 そして、これらの熱狂ぶりを「妖言のしわざではないか」と怪しんみながらも比較的冷静に眺めていた宗忠は、7月12日夕べに宮中で催された殿上人田楽に駆り出され、懸鼓・小鼓・笛・ささら(※4)・銅拍子を背景に踊り歌う羽目に立たされたのであった。

(※1)大江匡房(おおえのまさふさ):平安後期の学者・歌人(1041〜1111)
 権中納言兼太宰権帥。後三条・白河・堀河の3代の天皇に仕えて記録荘園券契所の寄人・受領・院別当などを歴任。詩文に優れ有職故実に通じ『江談抄(ごうだんしょう)』など多くの著作を残した。

(※2) 『古事談(こじだん)』:6巻からなる説話集。源顕兼編で建暦2年(1212)〜建保3年(1215)に成る。王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6部に分け、平安中期までの史実・有職故実・伝説を記す。

(※3)参議宗通:藤原宗忠の父宗俊の腹違いの弟。宗忠にとっては11歳年下の叔父にあたるが、幼少より白河法皇の寵を受けて19歳で蔵人頭、22歳で参議、23歳で正3位、26歳で権中納言、その後は権大納言民部卿中宮大夫と目覚ましく出世して鈍行出世の宗忠を忸怩たる気分にさせたのだが病により50歳で死去して大臣には至らなかった。宗忠自身は保延2年(1136)に75歳で従一位右大臣に昇り詰めて翌々年出家し、保延7年(1141)に当時としては驚異的な80歳の天寿を全うしている。こうしてみると長生きも実力の内と思えてしまう。

(※4)ささら:日本の民族楽器のひとつ。20センチメートルほどの竹の先を細かく割って束ねたもの。田楽・説経・歌祭文や田植囃子に使われた。

参考文献 『中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田芳実著 (株)そしえて