後白河院と文爛漫(11)公卿も書く(6)『中右記』(6

 
 一般的に公卿は日記で下級官僚の仕事ぶりに触れることは非常にまれだが、藤原宗忠検非違使別当就任中の日常活動をかなり詳細に『中右記』に記しており、ここで検非違使の中でも反乱鎮圧や逆賊などの追捕を担う追捕尉(ついぶのじょう)・火長(※1)・看督長(※2)および放免を司る庁下部(ちょうのしもべ)などを除いた、いわゆる別当直参と称して頻繁に宗忠邸を往来した下級の検非違使について取り上げてみたい。

 永久2年(1114)の『中右記』によると、当時の別当の日常庁務は別当邸で執り行われ、吉日日を選んだ年頭の「庁務初めの儀式」を皮切りに、邸内に設けられた「庁坐」あるいは「家中使庁坐」に着席し別当の席から、参内した検非違使役人に対して様々な庁務に応対していた。

 宗忠在宅の日の庁務は早朝から深夜に亘り、入れ替わり立ち代り参上した検非違使からの、事件発生・捜査・逮捕・尋問・断罪・行刑などの状況報告や、院御所などお上からの指令、諸所からの要請などが言上され、それに対して一つ一つ宗忠の指示を仰ぐという仕組みであり、

「行重・有貞・資清・説兼ら来る。申し上ぐる所の事はなはだ多し。一々沙汰し、各々まず尋ぬべきの由仰せおわんぬ。使庁万人の訴え忽ちに決し難し。よってまず尋問すべきの由下知するばかりなり」(同年3月17日)、「明兼・盛道・資清・ら来る。申し上ぐる所一々沙汰す。終日使庁の事繁多なり」(6月29日)

と、宗忠はその激務ぶりを『中右記』に記している。

 そのような激務を通して頻繁に別当邸に参上するのは、明法博士(※3)兼少志(※4)・中原明兼、少志・大江行重、安倍資清、防鴨河使主典左衛門府生(※5)・伴有貞、左衛門府生・内藤経則、藤原盛通、平宗実、防鴨河使判官(※6)少尉・源重時たちであったが、中でも宗忠の手足となって検察の現場と別当宅を往来して活動したのは、中原明兼、大江行重、安倍資清、伴有貞、内藤経則らの明法家や衛門府の志、府生クラスの別当直属の事務官僚クラスであり、彼らの多くは長い年月に亘って同じ任務を担ってきたベテランたちであった。


    

(上図は尋問する検非違使『国宝 伴大納言絵巻』より)

 例えば宗忠の別当辞任3年後に60余歳で死去した安倍資清は、元太政官外記(※7)局の史生であったが、後に検非違使に転じ衛門府の府生から初めて後に志に任じられて死去するまでの20余年を検非違使として勤め、日々別当邸に参内してその仕事ぶりを見てきた宗忠は彼を「奉公の者なり」と評価している。

(※1) 火長(かちょう):検非違使配下の職。府生の下。

(※2) 看督長(かどのおさ):平安時代検非違使の属官として罪人の追捕や牢獄の事を司った者。赤狩衣・白衣・布袴を着け白杖を持った。

(※3)明法博士(みょうぼうはかせ):明法道の教官。大学で律令・格式を学生(がくしょう)に教えた博士。定員2名。平安中期以降は坂上・中原両家の世襲となる。

(※4)志(さかん):「佐官」の字音。律令制の4等官の最下位。公文書の授受や作成を担当。太政官神祇官では「史」、省では「禄」、使では「主典」兵衛府衛門府では「志」などと書く。

(※5)府生(ふしょう):六衛府及び検非違使の下級幹部。主典(さかん)の次位。因みに六衛府とは平安初期以降、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六つの衛府を指す。

(※6)判官(はんがん或いはほうがん):検非違使に属する裁判官。因みに源義経検非違使の尉(判官)であったから義経の称になった。

(※7)外記(げき):律令制太政官の主典(さかん)の一種。少納言の下で詔書の検討、奏文の作成、公事・儀式への奉仕などを司った官。


引用並びに参考文献 『中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田芳美 (株)そしえて