後白河院と文爛漫(22)公卿も書く(17)『兵範記』(1)仮御所

「11日、鶏鳴、清盛朝臣・義朝・義康等都(すべ)て6百余騎、白河に発向す。此の間、主上(後白河)、腰輿(※1)を召し、東三条殿に遷幸す。内侍、剣璽(※2)を持ち出す。左衛門督殿(忠通の息子基実)これを取り、腰輿に安んぜしめ給う。他の公卿ならびに近将、不参の故なり。殿下(関白忠通)、扈従(※3)せしめ給ふ。(中略)女御(忻子)、網代車に駕し、同じく渡御す」

 上記は摂関家に家司(※4)として永く仕えた平信範(たいらののぶのり)の日記『兵範記(※5)』の保元元年(1156)7月11日の記述から一部を引用したものである。

 この場面の舞台となった東三条殿は摂関家の正邸であり、既に述べたように(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20131028)、久安6年(1150)9月26日に藤原忠実が義絶した忠通から奪い返して偏愛する息子頼長に譲渡したものであるが、何故、高松殿を御所とする後白河天皇がわざわざ剣璽を伴って遷幸して、さらには天皇即位と決まった時点で急遽入内したものの、さほど仲睦ましいともいえない正妻までも渡御して、東三条殿を俄か仕立ての御所とする必然性が生じたのか。次回から摂関家の家司の視点から観た保元の乱平治の乱を『兵範記』を通してなぞってみたい。


   

(上図左:東三条殿宮中内宴の場面、右:東三条殿での大饗の為の炊事の場面、共に『年中行事絵巻』より) 

(※1)腰輿(たごし):長柄を手で腰のあたりまで持ち上げて運ぶ輿。

(※2)剣璽(けんじ):三種の神器のうちの宝剣と神璽

(※3)扈従(こしょう):つき従うこと。

(※4)家司(けいし):平安中期以降、親王内親王・摂関・大臣・三位以上の家の事務を司った職員。

(※5)兵範記(へいはんき):平安末期、兵部卿平信範の日記。「ひょうはんき」とも読み、『人車記』ともいう。1132〜1171年の記事があり、保元の乱高倉天皇即位など、当時の政治・社会情勢を知る上で貴重な資料。

参考文献:『保元の乱平治の乱』河内 祥輔 吉川弘文館