後白河院と文爛漫(2)法皇も書く(2)源清経のスパルタ教育

 後白河院の筆になる『梁塵秘抄口伝集』の中でも、とりわけ今様の師・乙前の語りを元に浮き彫りにした西行の祖父「源清経」像は白眉だと私は読むたびに思うのだが、愛情の失せた今様の第一人者で乙前の師であった目井に対する嫌悪感とパトロン魂との壮絶な葛藤は既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090207)ので、ここでは乙前を始めとする若手芸人を自ら仕込んだ源清経のスパルタ教育に焦点をあててみたい。

 免許皆伝を伝授されて正当な今様の第一人者となった目井は、若手の育成にはあまり積極的ではなく、乙前についても愛人でありパトロンでもあった源清経から「長年お前の面倒を見てきた見返りに乙前に秘曲も含めて全てを仕込むように」とせっつかれて直伝したのであった。このままでは今様の正当な後継者が途絶えてしまうという清経の危機感であったろう。


今様師弟関係図(棚橋光男著『後白河院法皇』を元に筆者が一部アレンジ)

 であるから、他の若手の忉利(とうり)や初声(はつごえ)については、清経が催促しても目井は首を縦に振らず、結局、清経が自ら乗り出してこの二人を仕込むことになったのだが、彼の指導は明け暮れ途切れることはなく、余りの眠さに二人は外に出て水で目を洗ったり、睫毛を抜いたりしたものの到底眠気に打ち勝つことができなかった、と乙前は後白河院に語っている。

その余波は乙前にも及び、清経の訓練が連日連夜続き、夜が明けても蔀(※)を上げることもなく薄暗い中で練習をさせるので、さすがに乙前が「「夜が明ければ蔀を上げ、暮れれば蔀を下げるのが世の常なのに、これでは世の常から外れていて、なんとも鬱陶しい」とうんざりした声で言うと、

 「どうしてそんなに今様を嫌うのかね。今のように若い時はこのままでもよいが、年老いて誰からも見向きもされなくなった時、世の人が絶えない限り今様好きの高貴な身分の人が歌の節がおぼつかなくなった時など『誰それなら、きっと知っているであろう』と声をかけてくれる人もいるものを。今様を良く極めてこそ、老後にてそのような幸運に恵まれるものだ」と、源清経は彼女たちを諭して手を緩めることがなかった。

 齢80歳を過ぎて、後白河院から10余年に亘って師と尊ばれる自分が今あるのも、あの時の源清経の言葉と厳しい修業があればこそ、と、乙前は後白河院に語っている。
 
 (※)蔀(しとみ):寝殿造りの邸宅における屏障具の一。格子組の裏に板を張り日光を遮り風雨を凌ぐ戸。


引用ならびに参考文献:『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』 榎 克朗 校注