後白河院と文爛漫(13)公卿も書く(8)『台記』(1)菖蒲若から

 太治5年(1130)正月3日、前関白・藤原忠実が偏愛する次男で11歳の菖蒲若(あやわか)を後見して、無事に「昇殿の儀」を遂げさせたのは『中右記』の著者・藤原宗忠であった。これに先立ち、宮廷人として殿上の簡(※1)に記される菖蒲若の名前の命名者として宗忠が選んだのは、『御堂=道長』と『宇治殿=頼通』に通じる『頼長』であり、こうして「悪左府」として宮廷で辣腕を振るう藤原頼長が出現したのである。

 70歳近い老体の宗忠が神経と体力を擦り減らす昇殿の儀の後見を引き受けたのは、藤原忠実が宗忠の生母の甥にあたるうえ、日頃から宗忠を引立てくれた恩義から、溺愛する次男の晴れの儀を無事遂げさせたいと願う忠実の懇請を受け入れたからであった。

 その宗忠はさらに8年余に亘って宮廷人を勤め、内大臣、右大臣・従一位と昇り詰めて保延4年(1138)2月に77歳を以て官位から退いて出家するとともに52年に及ぶ『中右記』の筆を折り、保延7年4月20日に80歳の天寿を全うした。

 他方、正月3日に11歳で昇殿の儀を許された頼長は、同年4月19日に元服して正5位下に叙されるという破格のスタートを切り、10月に右近衛権中将、13歳で権中納言、17歳で鳥羽院別当に補任されると同時に宗忠が70歳にして辿り着いた内大臣に昇進、30歳で従一位左大臣という超特急で出世階段を昇り、保元元年(1156)7月に勃発した保元の乱で負傷して37歳の波乱の生涯を閉じるのである。


      

    (上図は左が右大臣藤原宗忠 右が左大臣藤原頼長 共に『『図版 天子摂関御影』より』


(※1) 簡(かん):中国で紙の発明以前の書写材であった竹または木の札。転じて文書。手紙。木簡・書簡。