この長期にわたる異常な永長田楽について「まったく前代未聞」「その起こる所を知らず」「けだし霊狐の所為なり」と『洛陽田楽記』に記した大江匡房も、『濫觴抄』では、そのきっかけになった起因を嘉保3年(1096)3月7日に生じた「死穢」に係る事件ではなかったかと述べている。
因みに濫觴(らんしょう)とは物事の起原を意味し、「長江も水源にさかのぼれば觴(さかずき)に濫(あふ)れるほどの小さな流れである」から由来しているとされる。
嘉保3年3月7日の死穢に係る事件とはどんな事件か、『中右記』によれば、
住吉社の神主・津守国基が大伽藍の私堂を建立し、延暦寺の権少僧都慶朝(後の38世天台座主(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130408)を導師に迎えて盛大な落慶供養を催したが、その日は摂津のみならず他国からも結縁を願う多くの貴賤男女が参集して「数千市をなし、禅庭隙なし」といったありさまで、その混雑を解消するために検非違使左衛門尉を勤める国基の身内が強硬手段で群衆を追い払ったところ、この措置に興奮した老若男女数十人が池に身を投げて死ぬに至り、居合わせた人々が「死穢」に触れることとなった。
ところが、投身自殺を全く知らずに都に戻った高僧や楽人たちが宮中に参内したり、強硬手段の張本人の検非違使左衛門尉が前相国(※1)邸を訪問したりで京中に触穢(※2)が拡がり、その障りを畏れた朝廷が石清水・松尾・当麻・梅宮など諸社の神事をことごとく中止・延引する決定を下したのである。
そこで大江匡房は死穢の障りを畏れた朝廷の神事中止・延引の決定と永長田楽における禁中での侍臣田楽を結びつけて『濫觴抄』に次のように記している。
「嘉保3年7月12日 宮中において奏す。(略) 上皇御所等に参る。けだし当時の癖なり。去る3月国基重穢により、松尾祭延引の間、童謡(※3)に云わく、明神これを肯(がん)じ受けずと云々。これによりて残人(ママ)等、競ってこの態をなし、かの社に参らしむと云々」
つまり、朝廷が触穢を畏れて松尾社祭の延引を決定したために、それに反対して「松尾明神は祭りの延引を承諾されない」の意を含んだ童謡がどこからともなく広がって多くの人々を動かし、それが2カ月もの間の田楽狂乱に発展したということのようだ。
ここでの童謡は現在の童謡(どうよう)ではなく、事物の是非善悪のあらわれを予言する不可思議な民間流行歌謡で、当時の権力者にとって彼らの決定に反対する民衆の声(妖言と称した)としてあらわれる場合が多く、この時流行った童謡は、死穢の障りを畏れて祭礼を延引・中止した朝廷の決定に対して、松尾明神の託宣に名を借りて祭りを挙行しようと呼びかけて多くの人々を動かした事が永長大田楽の発端となったと大江匡房は指摘したのである。
(※1)相国(しょうこく):中国で宰相の称。太政大臣、右大臣、左大臣を指す。
(※2) 触穢(しょくえ):そくえ。死穢・弔喪・産穢・月経などのけがれに触れること。当時はその際、宮中参内や神事などを慎んだ。
(※3)童謡(わざうた):上代歌謡の一種。民間のはやり歌。時事の風刺や異変の前兆を謡い、政治的目的などから流行させた歌謡。(現代のTwitterに似ていると筆者は思う)。