後白河院と文爛漫(18)公卿も書く(13)『台記』(6)欠ける望

 政界復帰の父・忠実の強力な支援を受けて朝堂の頂点に昇り進めた頼長であったが、康治2年(1143)兄・忠通に嫡男(基実)が誕生したことで彼の前途に暗雲が垂れ込める。この時の頼長は24歳、47歳の忠通はその後に兼実・慈円など9人の男子を持つことになるが、久安元年(1145)正月5日、泰子皇后の高陽院(かやのいん)での儀式で幼少の基実と初めて対面した頼長は、その日の『台記』に「件の児(基実)、去ぬる2月4日にこの院に迎へらる。本はこの母中納言内侍の宅に在り。殿下(忠通)愛さず。又、沙汰せずと云々。去々年生るる所なり」と記している。

 どうやら忠通は頼長の眼をそらすために息子を冷遇したように見せかけたようだが、それでも頼長は衝撃は小さくなく、その日の陣の定めの場で鳥羽上皇の寵妃で近衛帝の母・美福門院の意を汲んだ権大納言で忠通の正妻の兄・藤原伊通(これみち)の発言に反発して口論となり、その場を退場して以後20日間にわたり出仕を拒み続けるという失態を演じている。

 その後は比較的穏やかに見えた忠実・頼長と忠通の関係は近衛天皇の后を巡る争いで決裂する。頼長が計画通り養女にしていた正妻の姪で藤原公能(きんよし)の娘・多子に入内身分に相応しい従三位を叙させ、久安6年(1150)正月10日に入内まで漕ぎ着けたところ、突如として忠通が正妻の兄・藤原伊通の娘・呈子を2月1日に養女に迎えて入内工作に乗り出したのである。

 しかもこの呈子は2年近く前から近衛天皇の母・美福門院の養女になっており、さすがに忠実の政治力をもってしても、天皇の母美福門院と摂政忠通の連合に太刀打ちできるはずもなく、3月14日にいち早く立后した頼長の養女多子は近衛帝の皇后に、遅れて6月22日に立后した忠通の養女呈子は中宮という一帝二后の形を取りながらも、実質的な配偶者は中宮・呈子という結果をもって頼長側は敗北する。

 この入内争いで忠通と手を結んだ美福門院・藤原得子(なりこ)は、既にhttp://d.hatena.ne.jp/K-sako/2009022http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090303で述べたように、伊予や播磨などの富裕な受領や太宰の大弐などを歴任した権中納言・藤原長実の娘で、官位は低いが院政権の強固な経済基盤の担い手として急速に台頭した院近臣勢力から初めて上皇の后・天皇の母に昇り詰めた女性である。

 ひたすら父・忠実の政治力に縋って若くして出世した温室育ちの御曹司・頼長にとって、このような院近臣団は卑しい成上り者でしかなく、そういう出自を持つ美福門院は「母后といえども、既に諸大夫の女(むすめ)なり」と康治3年正月1日の『台記』に記したように侮蔑の対象でしかなかった。因みに「諸大夫」とは、4〜5位の中・下級貴族を指し、彼らは主として受領などを勤めて、貴族社会において頼長のような公卿にとっては隔絶した階層であった。

 何かと摂関家の出自を鼻にかけて院近臣を受領上がりとあからさまに侮蔑するだけでなく、朝堂で摂関家中心の貴族政治復活を図ろうとする頼長の政治姿勢と振舞に敵意と危機感を抱いた美福門院は、この時を睨んで彼女の縁者でもあり、忠通の正妻の兄でもある藤原伊通の娘・呈子を養女に迎えて密かに準備を進め、頼長の養女多子の入内を受けて急きょ呈子を忠通の養女にしたのは、呈子を中宮に相応しい従三位に叙する上で摂関家の家柄が必要であったからである。

それでは、このような意図を持つ美福門院と連携した忠通の本心は如何なるものであったか。単なる便乗か、それとも腹に一物あってのことかは定かではないが、この入内争いが、忠実を怒らせたことは同年9月26日に忠通を義絶した事からも推し量られる。

それ以前から忠実は再三にわたって頼長への関白譲渡を説得していたが、その都度忠通は首を縦に振らず、遂に堪忍袋の緒を切らせて、源為義の武力を背景に忠通から摂関家の正邸東三条殿を接収するとともに、氏の長者の象徴とされる朱器などの宝物を奪取したのであった。

参考文献は以下の通り

『日記で読む日本中世史』元木泰雄・松薗斉 編著 ミネルヴァ書房

人物叢書 藤原頼長』 橋本義彦 吉川弘文館

保元の乱平治の乱』 河内祥輔 吉川弘文館