後白河院と文爛漫(24)公卿も書く(19)『兵範記』(3)合戦準

 保元元年(1156)7月8日、後白河天皇側が藤原忠実・頼長親子を謀叛人と断定して摂関家の正邸東三条院を没収した翌9日夜半、7月2日に鳥羽法皇の臨終に駆けつけたものの対面を許されず鳥羽殿田中御所に籠居していた崇徳上皇が起こした密かな動きを、
平信範は同日付『兵範記』に、
 「九日。夜半、上皇(崇徳)、鳥羽田中御所より、密々白河前斎院(統子)御所に御幸す。上下奇を成す。親疎知らずと云々。」と驚きを込めて記している。

 続いて10日付『兵範記』は、
「十日、上皇、白河殿に於いて軍兵を整えられる。是れ日来の風聞、巳(すで)に露見する所なり」の書出しで、長年崇徳上皇に仕えていた平家弘を始めとする7人、鳥羽法皇の管責を受けて以来籠居を余儀なくされている源為義とその息子たちの4人、そして夜7時頃に宇治から左大臣藤原頼長が平忠政と源頼憲を率いて駆けつけで、額を合わせて合戦の議定を行ったと、崇徳上皇側の新たな動きを述べている。

対する後白河天皇側は、崇徳上皇側の動きに慌てて武士に招集をかけたものの、主だった顔触れがそろったのは10日の夜に入ってからで、その状況を同日付『兵範記』は、
「禁中(高松殿)彼の僉議に依り、同じく武士を集められる。下野守義朝(源)・右衛門尉義康(源)陣頭に候ず。此の外、安芸守清盛(平)・兵庫頭頼政(源)・・・・」と、当時の内裏であった高松殿に顔を揃えたのは、源義朝平清盛など故後鳥羽法皇に仕えた武士団と関白藤原忠通とその息子基実であった。


(上図は左:後白河院 右:崇徳院 『図版天子摂関御影』より。

参考文献:『保元の乱平治の乱』河内 祥輔 吉川弘文館