頼長が内大臣に叙せられる直前の康治元年(1142)8月3日の『台記』に極めて注目すべき記述がみられる。
「近年、南京衆徒乱逆最も甚だし。これにより、5月の頃より悪僧を勧学院に召し集む。(中略)召し取るところの15人、今夕摂政前左衛門尉為義(義家の子)に仰せ、使これを受け取る。奥州に遣はさんがためなり。為義、縄を付すと云々。(中略)件の為義、摂政(忠通)家人にあらず。或いは説く、今度悪僧刑罰の事、禅閣(ぜんかく:忠実)の御命により摂政(忠通)これを行う。興福寺権上座信実、衆徒を逐う。或いは曰く、禅閣、信実がために衆徒を刑す。(中略)今度、刑をこうむる僧、多くこれ法文習ひ知ると云々。ああ哀しきかな」(『日記で読む日本中世史』より引用)。
これは摂関家の氏寺・興福寺の衆徒が、院近臣の処罰を訴えて頻々と起こす嗷訴が、白河法皇・鳥羽上皇の摂関家離反の気運を強めることに危機感を抱いた前関白で頼長の父・忠実が、興福寺の実権を掌握した悪僧信実を通して寺内統制を図ったものの、反信実の勢力による内部抗争が激化したことから、忠実が名目上の興福寺の支配者・摂政忠通に命じ、忠実の私兵であった河内源氏(源為義)の武力を用いて、反信実派の衆徒15人を奥州に配流するという摂関家内の私刑に及んだ事を記したものである。
悪僧の権上座信実を使って興福寺を統制支配する忠実にとって、信実に対抗する衆徒は許し難い存在であり、信実に命じて勧学院に追い込ませた15人の衆徒を源為義の武力を背に奥州に配流しながら、忠実は「信実のために衆徒を刑す」と自らの行為を正当化している。
『愚管抄』で保元の乱を「武者ノ世ニナリニケリ」と嘆息したのは摂政忠通を父とする天台座主・慈円であった(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20120629)が、この表現は武者の登場に摂関家を始めとする公卿たちがなすすべもなく立ち尽くす様を髣髴とさせる。
ではあるが、「慈円も戯言を!」と、私が思ってしまうのは、長い間に亘って生家の摂関家が膨大な荘園管理をする上でどれだけ河内源氏の武力を必要としてきたかを彼が知らなかったはずがないからである。
御堂道長に始まる摂関家の荘園集積は、特に慈円の祖父・藤原忠実の時代に著しく、白河法皇の勘気を蒙って11年近く宇治に蟄居していた間は別としても、法皇崩御と共に政界に復帰してからは氏の長者として辣腕を振るい、失脚前にも劣らない膨大な荘園を掌握して「冨家殿(ふけどの)」と呼ばれた。
その冨家殿・忠実は、久安6年(1150)9月26日、頼長への関白譲渡に応じなかった忠通を義絶し、源為義の武力を背景に摂関家の正邸東三条殿を接収するとともに、氏の長者の象徴とされる朱器などの宝物を奪取したのであった。
父忠実の悪僧処刑に「ああ哀しきかな」と嘆いた頼長も、父から氏の長者を引継いだ後は興福寺を統制支配し、主従関係を結んだ源為義の武力を背景に膨大な荘園を管理し、そうして保元の乱まで頼長と為義は運命を共にすることになる。
武者も悪僧も無から生まれたのではない。一人で大きくなったのでもない。とりわけ武者は院や摂関家に傭兵として雇われ、雇い主の依存度の高まりと共に雇い主を凌駕する力を蓄えていったのである。