2013-01-01から1年間の記事一覧
長治元年(1104)の山上合戦は、権少僧都・貞尋を頭目とする西塔と、後の上座・行算を頭目とする東塔の二つの党派間の抗争であるとともに、この行算には法薬禅師という相棒がいたと前回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130328)が、藤原宗忠はそ…
週に1度の頻度で絵画教室に通い始めて満1周年を迎えた。まずは基礎が大切と鉛筆デッサンから始めたのだが、1年経ても案外思うように描けないものだという思いと、鉛筆表現は奥が深いという思いの真っただ中にいる。 先日、教室に着いて風呂敷包みを作業台に…
『中右記』の著者藤原宗忠は、天永4年(1113)に検非違使別当を任じられて白河院政下の政権安定と京の治安維持の陣頭指揮に当たったことから、叡山の大衆並びに悪僧の動向に対しては並々ならぬ注意を払っていた。 その宗忠が、長治の山上合戦から(http…
ところで前回述べた悪僧貞尋(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130308)は、82歳で永久6年(1118)2月15日に入滅したのだが、この時検非違使別当(※1)であった藤原宗忠は、同日付『中右記』(※2)で「くだんの人、年来大衆張本なり。山上(叡山…
白河法皇治世下の延暦寺では平清盛の護持僧と称された天台座主明雲の門流である東塔南谷の円融房や皇族・貴族を特定とした寺の梶井門跡が成立し、康和4年(1103)に入滅した第37世天台座主・仁覚は梶井派の出であった。 ところがその仁覚の跡を継いだ…
さて先に述べた延暦寺の僧徒が大挙して日吉社と白山社の神輿を振りかざして加賀守藤原師高の配流を求めた嗷訴(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130218)は、舞台を後白河院御所に移して訴訟の場面へと展開する。 後白河院が御所南面に姿を現し控えている老…
治承元年(1177)4月13日、日吉社と白山社の神輿を振りかざした延暦寺の僧徒が大挙して加賀守藤原師高の流罪を求めて入洛した時、朝廷の命により内裏の警固に当たった源平の陣容は次の通りであった。 平家は総大将平重盛が3千騎を率いて東の陽明門・…
治承3年(1179)11月の覚快の辞任と明雲の就任という天台座主人事を以て延暦寺の「学生・堂衆合戦」は取り敢えずの収束を見たのだが、23年後の建仁3年(1203)3月に二者の抗争は再び勃発する。 時は後白河院崩御後10年余を経て、奇しくも治…
それでは学生の下働き的な存在であった下級僧の堂衆が、武力を備えた学生と合戦のプロたる武士を編成した官軍との連合軍を打ち破るまでの力をどのようにして備えたのであろうか。 『延慶本平家物語』はこの辺りの事情を、 「堂衆と申すは学生の所従にて足駄…
治承2年(1178)に幕を切って落とされた延暦寺の堂衆と学生の抗争が世間を驚かせたのは、これまで全く表面化することのなかった二者間の対立であったことは既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130108)。では、この抗争で俄かに出現した「学生…
治承2年(1178) 10月4日 延暦寺の堂衆と学生が闘争。後白河院の命を受けた平清盛が堂衆を討伐。 この延暦寺の学生(※1)と堂衆(どうしゅ)の衝突は、その前年の治承元年(1177)の敦賀津において、越中の所領の知行(※2)を巡って学生の叡俊…