後白河院と寺社勢力(147)悪僧(7)法薬禅師(2)叡山大衆使

 大山寺支配を目論んだ法薬禅師は(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130408)、大山寺別当・法橋光清が石清水八幡宮別当を本職として京の八幡に常駐している隙を狙い、「叡山大衆使」を長治元年(1104)10月19日に筑前に派遣して、大宰府(※1)から法薬禅師の大山寺別当職執行を認める文書を申し請けて大山寺を意のままに仕切ったが、10月末には大宰府側も法薬禅師の別当職執行の文書を大山寺所司(※2)に送った事から寺内の僧や寺領の荘民がこぞって法薬禅師側に靡き、たまりかねた法橋光清側の寺務執行者は11月13日に石清水八幡宮に常駐する別当・光清に窮状打開の解状(※3)を送ったのである。

 この解状を受けた光清は「叡山大衆使と称して濫行を繰り返す法薬禅師一味の悪僧だけでなく、大山寺側から法薬禅師に加担する上座・宗胤及び前別当後見・信厳を召し捕える旨の宣旨を賜りたい」との訴状を12月8日付で朝廷に上奏したのだが、その訴状で特筆すべきことは、宗胤と信厳という大山寺の二人の実力者が顔の広さを利用して博多で活発にビジネスを展開する宋商人たちから借り請けた物品で大宰府役人を籠絡し、法薬禅師の別当職執行を認める文書を入手した事である。

 「延暦寺大衆」の威力を推し量れば「叡山大衆使」だけでも大宰府への効き目は十分であったところへ、筑前一帯に強力な影響力を持つ大山寺の実力者から物品を伴う働きかけをしたのであるか、大宰府役人としては彼らの意に沿う文章を発することは造作もなかったであろう。

 さて、法橋光清からの訴状を受けた朝廷は「叡山大衆使と称して寺家荘園を押収するなど濫行のかぎりをつくす輩を検非違使に下知して召し捕えよ」との宣旨を下し、その任務の実行は検非違使が当たる事となったが、検非違使から大宰府に協力要請の文書が送られたのは長治2年正月であった。
 
 ところで山上合戦が一応の収拾を見た延暦寺では、空白期間8か月を経た長治2年3月14日に園城寺僧正が天台座主に任命されたが大衆から強く拒否され、その3日後に法性寺座主・法印仁源が任命されて落着した。

しかし、大宰府権帥・藤原季仲が配流されることになる山門嗷訴はその直後に始まるのである。


(※1)大宰府大宰府):律令制で、筑前国筑紫郡に置かれた役所名。九州及び壱岐対馬の2島を管轄し、さらに外冦を防ぎ外交を司った。長官は帥(そつ)、その下に権帥・大弐・少弐や祭祀を司る主神(かんづかさ)が置かれた。

(※2)所司(しょし):<仏>?僧侶の職名。上座・寺主・都維那の称。三綱。?寺務を司る役僧。

(※3)解状(げじょう):下より上に達する文書。律令制で八省以下内外の諸官、すなわち京官・地方官が太政官及び所官に上申する公文書。解(げ)に同じ。


参考文献は以下の通り

中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田 芳実 (株)そしえて

『僧兵=祈りと暴力の力』 衣川 仁 講談社選書メチエ