後白河院と文爛漫(14)公卿も書く(9)『台記』(2)雅仁親王と

 保延3年(1137)12月25日、藤原頼長鳥羽天皇の四の君・雅仁親王の「読書始」に奉仕して作文会の講師を勤めている。この時の雅仁親王は11歳、9歳年長の兄で在位中の崇徳天皇との間に二人の兄がいるが、二人して生来の身体障害者であり、また兄にも、父の寵愛する藤原得子にも皇子が誕生していなかったので、その時点では崇徳天皇の後継候補の最短距離に位置していた。

 まさかこの時の雅仁親王は、18年後に近衛天皇の後継を巡って騒然としていたおり、「イタクサタダシク(世間に評判になるほど)、御遊ビナドアリトテ、即位の御器量ニハアラズト思召テ」と『愚管抄』が伝えるほどに父・鳥羽上皇から酷評され、また兄・崇徳天皇からも「文にも非ず武にも非ず」と悪しざまに言われるほど今様にうつつを抜かす遊び人ではなかったであろう。


   

(上図は鳥羽上皇と二人の息子、左:後白河、中:崇徳、右:鳥羽上皇『図版 天子摂関御影』より)

 一方の頼長は、摂関家の家司(※1)の娘を母とするいわゆる妾腹の子で、父・忠実の正室で右大臣源顕房の娘師子(もろこ)を母とする兄の関白・忠通と比べて出自においてハンディがあったが、23歳年長の忠通に男子誕生の兆候がなかったことから6歳で兄の養子となり、摂関家の嫡男として鳥羽院別当内大臣を勤めて廟堂で存在感を発揮しつつあった。

 忠通を父とし、天台座主を4度を勤めて「叡山の碩学」と称された慈円が、『愚管抄』で「ハラアシク、ヨロズニキワドキ」と人間性を批判しながらも、「日本第一大学生、和漢の才に富む」と高く評価せざるを得なかった頼長の学識と驚異的な勉学姿勢は、自らの出自の低さを乗り越えて、何としても兄・忠通を凌駕して摂関家嫡流を手中にしたいという野心から生まれたものであろう。

 とりわけ頼長が四書五経(※2)を中心とする漢籍の学問を中心に励んだのは、単なる興味からではなく、摂政あるいは関白として廟堂(※3)の頂点に立った暁に、身に着けた学問を政務に活用しようとする強い意志があったからと思われる。

  保延3年(1137)12月25日、即位の最有力候補であった11歳の雅仁親王と、その教育係として対峙した若き摂関家嫡子の藤原頼長、この二人の姿からイメージして、歴史に「もし」は禁句だが、ここで2つの「もし」に限って私の想像を展開してみたい。

第1の「もし」

 保延5年(1139)5月18日、鳥羽上皇が寵愛する藤原得子(後の美福門院)が皇子(近衛天皇)を出産しなかったら、崇徳天皇の後継は多少の紆余曲折はあっても、若き日の雅仁親王に決まっていたであろう。遠からず崇徳天皇に皇子誕生の可能性があったとしても、鳥羽上皇が忌み嫌う叔父子(上皇は祖父の白河法皇崇徳天皇の父とみている)の息子に皇位を継承させるとは思えないし、得子もライバル・待賢門院腹の崇徳が息子を即位させて院政を敷く事で、自分の立場を弱くする事は避けたいであろう。

で、で、そうなると。
 若くして即位した雅仁親王(何という天皇名になっていたか)が、咽を嗄らして明けても暮れても今様にうつつをぬかし、あの長大な『梁塵秘抄』を編纂する事もなかったであろう。

第2の「もし」

 保延6年9月2日、崇徳天皇の女房が第一皇子・重仁親王を出産したことが長女聖子を中宮に入内させていた関白・忠通を不快にし、美福門院と手を結んで近衛天皇後継に「後白河天皇」→「二条天皇」リレーを実現させ、保元の乱で崇徳の敵側に回ったとされている。

 そこで、もし、重仁親王が忠通の娘の聖子腹であったら、忠通が摂政政治を目論んで崇徳天皇と組んで重仁親王践祚を持ちだし、上記同様に鳥羽上皇・藤原得子から拒否されて重仁親王践祚案は消滅するが、保元の乱の要因の一つであった摂関家の分裂は生じず、忠通と頼長が敵味方になって戦う事もなかったであろうから、頼長が37歳でで戦死する事もなかったであろう。

 こうしてみると、「すべての歴史は」とはいえないまでも、「ある時期の歴史」は、惚れた女が産んだ子供に「天皇家」、「摂関家」、はたまた諸々の「家を」継がせたい権力者の思惑によって紡がれたともいえそうだ。

(※1) 家司(けいし):平安中期以降、親王内親王・摂関・大臣・三位以上の家の事務を司った職員。

(※2) 四書五経(ししょごきょう):四書と五経、共に儒学の枢要の書。四書は「礼記」中の大学・中庸の2編と論語孟子の総称。五経儒教で尊重される五種の経典。すなわち、易・書・詩・礼(らい)・春秋。

(※3) 廟堂(びょうどう):天下の大政をつかさどる所。朝廷。


参考文献は以下の通り

『日記で読む日本中世史』 元木泰雄・松薗斉 編著 ミネルヴァ書房

後白河上皇』 安田元久 日本歴史学会編集、吉川弘文館