後白河院と寺社勢力(148)悪僧(7)法薬禅師(3)太宰権帥配流

 元永2年(1119)6月24日付『中右記』によると、藤原宗忠が前太宰権帥藤原季仲が6月1日に配流地常陸国で74歳の生涯を終えた事を知らされたと記しているが、この藤原季仲こそ宣旨に基づく検非違使協力の要請に応えて悪僧法薬禅師一味追捕の出兵を指揮した大宰府権帥であった。

 長治2年(1105)4月、自らの訴状(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130418)を受け入れた朝廷から「叡山大衆使と称して寺家荘園を押収するなど濫行のかぎりをつくす輩を検非違使に下知して召し捕えよ」との宣旨を賜った大山寺別当法橋光清は、代理の法師に検非違使を伴わせて大山寺に向かわせたが、一方大宰府(※1)も権帥藤原季仲の指揮のもと兵を向かわせたので悪僧・神人と合戦になった。

 そして誤って放たれた矢が竈門宮の神輿に命中し、さらに日吉社の神人に死者がでたことで大山寺・大宰府双方に動揺が走ったのは、竈門宮が日照りの折には筑前国司が請雨の祈祷を行う筑前の中でも飛びぬけて由緒ある名社であったからであり、恐れ多い神輿の冒涜と流血は朝廷にも大きな衝撃を与えることになった。

 その後は叡山と大宰府がそれぞれの立場で朝廷に訴えを起こしたものの、この事件の初めての陣定(※2)が招集されたのは5月4日であったが遅々として進まず、叡山の大衆並びに法橋光清が本職とする石清水八幡宮神職・神人の朝廷への働きかけの後に、やっと10月28日に下った裁定は「太宰権帥季仲の停職・京への召喚」という叡山側に大幅に譲歩したものであった。

この裁定に勢いづいた叡山大衆は翌29日に「藤原季仲と法橋・光清の流罪」を掲げて入京して気勢を上げ、さらに翌30日の夕刻には数千人の叡山大衆が祇園社の神輿を奉じて嗷訴に及ぶ一方で、天台座主並びに僧綱ら叡山幹部は承香殿(※3)に詰め、他方の石清水八幡宮幹部は待賢門に参集して山門大衆と睨み合うという緊迫した状況の中で、朝廷は「法橋・光清と藤原季仲は罪名を勘ずべきの由」との有罪判決と量刑を受けるべき被告の立場におく決定を下したことで叡山大衆は喜々として山に戻っている。

 自らも陣定に連なっていた藤原宗忠はこの決定にたいして「季仲の大宰府権帥赴任に際しては、朝廷から『鎮西諸社が神輿をかざして濫行に及んだ時は奏聞(※4)することなく法に任せて処分してもよいとの専決認可の宣旨を受けていたはずであったが』と、強引な叡山に屈した朝廷に不満の意を『中右記』に記している。

 さらにその年の暮れの12月26日と28日の陣定で藤原季仲に対しては、律に規定された八虐(※5)の一つの「謀大逆免れ難し」との結論が出されて周防に配流との決定が下され、さらに翌年2月17日に「謀大逆という重罪にしては周防は都から近すぎる」との理由で常陸へ流されたのであった。

 ともあれ、この事件からは、悪僧法薬禅師の「濫行」が個人の恣意に基づく一匹狼的な行動ではなく、叡山大衆の支持を得たものであるばかりか、天台座主や僧綱といった幹部も一体となっていたことが事が読み取れる。

 余談ながら下世話な私は、出家をしたとはいえ「謀大逆」の罪科により遠流の常陸で失意にありながらも15年も生き永らえ、74歳という当時としては尋常ならざる長寿を保った藤原季仲の強靭な精神力に大いなる関心をはらっている。

(※1)大宰府(だざいふ):律令制で、筑前国筑紫郡に置かれた役所名。九州及び壱岐対馬の2島を管轄し、さらに外冦を防ぎ外交を司った。長官は帥(そつ)、その下に権帥・大弐・少弐や祭祀を司る主神(かんづかさ)が置かれた。

(※2)陣定(じんのさだめ):陣の座で行う政務の評議。

(※3)承香殿(じょうきょうでん):平安京内裏の殿舎の一つ。内宴・御遊などが行われた殿舎。

(※4)奏聞(そうもん):天子に奏上する事。

(※5)八虐(はちぎゃく):日本古代の律で国家・社会の秩序を乱すものとして特に重く罰せられた罪。謀反(むへん)・謀大逆(ぼうたいぎゃく)・謀叛(むほん)・悪逆・不道・大不敬・不幸・不義の総称。


参考文献は『中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田 芳実 (株)そしえて