後白河院と文爛漫(12)公卿も書く(7)『中右記』(7)内藤経則

 藤原宗忠検非違使別当を辞任した10年後の太治2年(1127)正月8日、かつて左衛門府生(※1)として彼に仕えた伴有貞(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130818)から、死去した同僚の内藤経則の後を継いで今年から皇室御願寺の六勝寺(※2)の一つである法勝寺の「寄検非違使」を勤めることになったと聞かされた宗忠は、別当就任翌年の内藤経則とのやり取りを思い起こした。

 伴有貞と同様に直参として頻繁に宗忠邸を訪れていた府生・内藤経則は、永久2年(1114)3月20日に「老耄(ろうもう)術なし。朝夕使庁雑務に堪えず。年八旬(80歳)に余る。身進退に迷うか」と老化により検非違使庁務の激務が身体に堪え難いと宗忠に訴えたのであった。

 そして翌月4月8日に院御所に召された宗忠は、白河法皇から「府生・経則老耄術なし。耳既に聞こえぬと云々。大略においては用にあたらざる者か」と内藤経則の件を持ち出されたのだが、その時も「年齢既に八旬に及ぶなり」と応じただけで、直後の4月10日の斎院御禊の点地(土地の点検)、同月16日の賀茂祭の行列、5月16日の未断軽犯の特赦、同月23日の獄囚の「進過状況」など通常の検察業務を担当させていた。

 さらには、白河法皇の父・故後三条天皇御願寺・円宗寺の「寄検非違使」という特別任務に充て、円宗寺三昧僧(※3)の元に潜んでいる窃盗法師の召喚や円宗寺御封の未済の催促といった難役をも勤めさせていたのであった。

 五味文彦「使庁の構成と幕府」(『歴史学研究』392号、昭和48年)によれば、「寄検非違使」とは「使庁官人の中から寺社に寄せられた検非違使」で本所検断権(※4)を確立している寺社に対して設定され、これを通じて寺社領内の犯人引渡、寺社御封米未済の督促や領内犯罪の訴訟などが行われたとされる。

 円宗寺のような聖域の治外法権や、三昧僧や神人が有する人身特権にからむ面倒な検察業務を円滑に処理するには、相当の熟練と周囲からの篤い信頼が大きく物をいう事を熟知していたからこそ、白河法皇藤原宗忠も老耄の激務に耐えられないと嘆く内藤経則を敢えて「円宗寺寄検非違使」に任命したのであろう。

 伴有友がもたらした消息から、藤原宗忠は内藤経則とのあれこれを思い起こしながら、あの老検非違使は太治元年(1126)頃に再び「寄検非違使」を勤め、結局は百歳近くで死ぬまで検非違使の職務から離れることがなかったことを知ったのである。


          

       (上図は舎人を拘引する検非違使『国宝 伴大納言絵巻』より)

 なおこの老検非違使・内藤経規については、4年前にも活躍する後期高齢者の一例として取り上げた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090111)が、彼の働き方は「超高齢社会」の真っただ中を生きる今日の私たちに示唆する事も少なくない。

(※1)府生(ふしょう):六衛府及び検非違使の下級幹部。主典(さかん)の次位。因みに六衛府とは平安初期以降、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六つの衛府を指す。

(※2)六勝寺(ろくしょうじ):平安末期、京都岡崎付近に建立された御願寺、法勝寺・尊勝寺・円勝寺・最勝寺・成勝寺・延勝寺の総称、いずれも「勝」の字を含んでいたから六勝寺と呼ばれ、法勝寺はその代表であった。しかし応仁の乱によって全て廃滅。

(※3)三昧僧(さんまいそう):専心に念仏などをする僧。あるいは法華三昧堂に常住して法華三昧を修する僧。

(※4)検断権(けんだんけん):中世の警察権・刑事権・裁判権を行使する権利。


引用並びに参考文献 『中右記〜躍動する院政時代の群像』 戸田芳美 (株)そしえて