後白河院と文爛漫(3)法皇も書く(3)玄人に教えを請われて

  ある年の5月に、今様芸人の江口・神崎の遊女(※1)や、美濃の傀儡子(※2)が集まって仏前に花を添える法会を持った時、延寿(下図参照)が今様の大曲「恋せば」をまだ歌えないので是非御所様(後白河院)から教わりたいと誰彼に話していましたよと近臣から聞かされた時は取り合わなかった後白河院であったが、

季時入道を介して延寿が申し込んできた時は「玄人の延寿が素人の私から今様を習うなんて逆さまではないか。私にとっては名誉だが気恥ずかしくもあるので、さはのあこ丸(下図参照)からでも習った方がいいのではないか」と、後白河院は、いささか面映ゆい思いで返事をしている。


 しかし、延寿から「是非とも御所様からお習いする事こそこの世に生まれた喜びでございます。それに、さはのあこ丸の歌は誰から習ったものかわかりません、し、と私の朋輩も言っておりますので」とさらなる沙汰があると、後白河院は「盗み聞きされると困るのであなたの朋輩のいない時に」と時間稼ぎとも思える返事をしたのだが、延寿から返ってきたのは「朋輩が美濃の青墓に戻るのには加わらず私は一人京に残って御所様から習いたい」との押しの強い応えであった。

 この一方ならぬ延寿の熱意に押さて、後白河院が師の乙前に「どうしたものか」と相談すると「それほど申すのでしたら、それなりの料簡があるのでしようから、教えてあげては」との進言があり、それで、後白河院は延寿を御所に招いて「恋せば」を教え始める。

 教わる延寿は名を知られている玄人、それにひきかえ教える自分は「治天の君」とか「専制君主」と呼ばれていても今様ではしょせん素人、そこに遠慮が生じて、初めのうち延寿が上手く歌えなくてもビシビシ厳しく指導することが出来なかったが、それでも根気よく、2夜、3夜と練習を重ねてゆくうちに、延寿が期待通りに歌えるまでに仕込むことが出来た。

 最後の夜に延寿が暇乞いをして退出しようとするところを後白河院が呼び止めて、「恋せば」を歌わせたところ、あまりの出来に「神妙(しんみょう)なり」と絶賛すると、

四大声聞(しだいじゃうもん)いかばかり  
喜び身よりも余るらん
我らは来世のほとけぞと
たしかに聞きつる今日(けふ)なれば

と延寿が歌ったので、感極まった後白河院は、延寿に唐織の藍色模様の二衣を褒美として与えている。

 因みに延寿が歌った今様は、
承安4年(1174)3月、平清盛の誘いを受けて後白河院が寵妃建春門院と共に安芸の厳島に御幸したおり、神の使いとされる巫女から再三今様を請われて、近臣が皆凍りついて押し黙る中を、後白河院が歌った

四大声聞(しだいじゃうもん)いかばかり
喜び身よりも余るらん
我らは後世(ごせ)のほとけぞと
たしかに聞きつる今日(けふ)なれば

という、後世成仏を詠った今様の替え歌であるが、四大声聞を自分に、そして、ほとけを後白河院に例えて歌った延寿の当意即妙なセンスに後白河院が感嘆したのであった。

(※1)江口・神崎の遊女(えぐち・かんざきのあそびめ):大阪市神崎川が淀川の本流から分かれる水上交通の河港を本拠とした今様の芸妓で、売春も行ったが遊女よりも芸者に近い存在。

(※2)傀儡子(くぐつ):主として京より東方の陸上交通の要衝を本拠とした芸妓を指し、歌に合わせて操り人形を舞わせる芸人であったが、当時は専ら今様を芸をとした。売春も行ったが遊女よりも芸者に近い存在。


引用ならびに参考文献:『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』 榎 克朗 校注