後白河院と文爛漫(7)公卿も書く(2)『中右記』(2)田楽狂乱(

 50余年に亘る藤原宗忠の長い日記『中右記』の中で特筆すべきもののひとつに「永長大田楽」と呼ばれる上は宮中から下は雑人に至る田楽の狂い咲きが挙げられる。因みに「永長」とは堀河天皇治世下の嘉保2年(1095)と承徳1年(1097)に挟まれたわずか1年間の元号である。

 さて、ここでは、宗忠が怪訝な気持ちを抱いて述べた田楽事件を列挙してみたい。

(1) 寛治8年(1094)5月20日庚申待(※1)の貴族の田楽乱行事件
 
  この事件は娘が生まれた為に7日間の籠居を申し出て出仕を休んだ(何ともうらやましい)宗忠に、親交の深い同僚の蔵人兵部から伝えられたもので、御年20余歳の少納言家俊が、青侍(※2)十数人を引き連れて田楽をなして京中を練り歩くうちに、他人の家に投石をして騒動を起こしたもので、そのときの彼らの裸で烏帽子を放つという「異体奇異」のふるまいが、出会った人たちの眼に「百鬼夜行」として映ったようだ。灯りのない時代だからさぞかし恐ろしかったであろう。

 ことの子細は、庚申待の夜は寝ないで徹夜するならわしから、少納言家俊一行も眠気覚ましに遊興しているうちに田楽で街頭に繰り出して乱行に及んだもので、「他人の家」とは関白藤原師通の進物所預(あずかり)を務める外記太夫(※3)の家であったが、そこでも下級の「殿下(※4)蔵人所衆」が大勢で歌笛の音もかしましく遊興しており、それを目にして癇に障った家俊が青侍に命じて外記太夫宅に瓦礫を雨あられのように投げさせて捕縛され、検非違使に引き渡されたところ少納言家俊であることが判明したのであった。

傑作なのは、宗忠が「後輩の慎みのために記し置く」とのコメント付きでこの事件を載せている事である。

(2) 寛治8年(1094)8月8日洛中住民の「御輿迎」の祭礼田楽

 これは宗忠が大学寮(※5)の儀式で外出した折、大学寮付近の街頭で遭遇した祭礼田楽で、御輿をかつぎあげて練り歩く傍らで田楽獅子の鼓笛も喧しく、その周りを多数の雑人が取り巻いて”市をなす”ありさまであったが、宗忠が「これは一体何事か」と見物人に尋ねたところ、この日は山門(延暦寺)末寺の京極寺の鎮守明神の祭礼で、しきたりに従って「御輿迎」の田楽の儀を行っているとのことであった。

    

(上図右は繰り出す御輿、左は騎馬田楽と獅子田楽 共に『年中行事絵巻』中央公論社より)

しかし、田楽騒ぎはこれだけでは終わらなかったのである。


(※1)庚申待(こうしんまち):庚申の夜、仏家では帝釈天及び青面金剛を、神道では猿田彦を祀って寝ないで徹夜する風習で、その夜眠ると命を縮めるとされた。中国の道教の守庚申に由来する禁忌で平安時代に伝わった。

(※2)青侍(あおさぶらい):公卿の家に仕えた六位の侍。青色の袍を着たから呼ばれるようになった。

(※3)外記太夫(げきだゆう):外記とは律令制太政官の主典(さかん)の一種だが、この場合は摂関家の書記と思われる。

(※4)殿下(でんか):醍醐天皇の頃からの摂政・関白・将軍の敬称。

(※5)大学寮(だいがくりょう):律令制式部省に属する官吏養成機関。経学・算から始まり、のちに紀伝・明経・明法・算道の4道を博士・助教らが五位以上の貴族の子弟などの学生に教授するとともに、これらに関する事務一切を司った。

参考文献:『中右記〜躍動する院政時代の群像』戸田芳美 (株)そしえて