後白河院と文爛漫(17)公卿も書く(12)『台記』(5)欠ける望

 「頂点を極めた御堂道長から下って5代目に当たる藤原頼長の『台記』は正に摂関家自壊の物語でもある」と先回述べたのは、専制君主白河法皇摂関家への支配力強化のみが崩壊の要因ではなく、忠実・頼長と忠通との間に展開されて周囲を辟易させた摂関家嫡流を巡る骨肉の争いこそが主たる要因であったと思うからである。

 天治2年(1125)6歳の頼長が庶子にもかかわらず23歳年長の兄・関白忠通の養子となって摂関家嫡流の立場を得たのは、偏に父・忠実の強い意志によるものであり、であるからこそ、太治5年(1130)4月に元服した頼長が正5位下に叙され、その後は右近権中将を経て近衛中将へと進む、師通・忠実・忠通の三人の摂関家嫡流のみに許された特権的な出世コースに載ることが可能であった。

 さらに、太治4年(1129)7月7日の白河法皇崩御に伴い、11年に亘る宇治での蟄居生活を振り捨てて政界復帰を果たした父・忠実は、翌々年の11月17日には鳥羽上皇に召されて長男忠通、二男頼長を従えて参院しているが、忠実が上皇より内覧宣旨を得たその直後に12歳の頼長が従三位に叙せられ公卿に連なることが出来たのは、再び強力な権力を手中にした忠実に負うところが大きく、その後の忠実は「摂関頼長」実現に向かって着々と布石をうってゆく。

 その忠実の布石の中でも忠通のみならず朝廷各方面が眉を顰めたのは、白河法皇の勘気の要因であった娘泰子の鳥羽上皇への入内工作で、入内の際に忠実と泰子の待機する土御門殿に鳥羽上皇が御幸するという前例のない「院参」を強行しただけでなく、鳥羽上皇自身も気乗りしなかったと伝えられる上皇の「夫人」をもって立后という前代未聞の泰子皇后を実現させたことである。

 しかし、この極めて異例ともいえる泰子立后が「摂関頼長」実現を目指す忠実にとって欠く事の出来ない政治行動であった事は、泰子入内直後の長承3年(1134)正月5日に正二位に叙せられた頼長が、3月19日の泰子立后に際して皇后宮大夫に補せられ、その後の鳥羽上皇と忠実・頼長を結ぶ泰子の働きが功を奏して、保延2年(1136)11月13日には頼長が鳥羽院別当に補され、さらに1か月後には17歳にして内大臣に叙せられた事からも証明されている。


参考文献=『人物叢書 藤原頼長』 橋本義彦 吉川弘文館