後白河院と文爛漫(4)法皇も書く(4)清盛同道の熊野詣

  後白河院平治の乱の翌年永暦元年(1160)10月23日に熊野に向かって京を発ち、25日に熊野99王子の一つ厩戸王子の宿(大阪・泉南市)に宿泊した時、随伴者左衛門尉・藤原為保の先達の夢に王子が現れて「この度の御幸は喜ばしいが古歌(今様の懐メロ)を賜れないのは口惜しい」と述べたと聞かされる。

 実は京を発つ前から近臣の中では「道中の王子では法楽(※1)の奉納などをすべきもので御所様(後白河院)の御歌があっても良いのでは」との声もあったが、他方で「下臈の多い中で御所様の御歌などあけっぴろげすぎるのでは」との意見もあって、後白河院はそのままにしておいたのだが、そういう夢のお告げがあるならあれこれ忖度しないで今様を奉納すべきと考え直して、夜更けに厩戸王子を発って夜の明けないうちに次の長岡王子に参籠した。

 で、後白河院が同道した太宰大弐とよばれていた平清盛に「夢のお告げで長岡王子に籠ってこれから今様を詠じる」と相談したところ、「そういうことでしたら、歌われるのがもっともなことで、こちらがとやかく言うことではございません」との返事であった。

 内心は「こんなに雑人どもが沢山いる中で今様を謡われるなどどういうものか」と思いながらも清盛がうつらうつらしていると、御幸(※2)と見まがう礼装の束帯姿の先払いを伴った唐車(※2)が王子の前に現れ、今から歌を聴くかと思われて、はっと目を覚ましたまさにその時に

熊野の権現は
名草の浜にぞ降りたまふ
若の浦にしましませば
年はゆけども若王子(にゃくおうじ)

と、後白河院が誦し始めた。
 
 驚いた清盛が院の近臣で今様仲間の藤原資賢にこのことを話すと、先の藤原為保の先達の夢と合わせて、「これこそ目の当たりにした確かな神のお告げ」と皆で語り合ったという。こうして後白河院の34回に及ぶ熊野詣が始まったのである。

 ところで数年前に竹内理三著『日本の歴史6武士の登場』(中公文庫)を読んで以来、私は平清盛白河法皇落胤説にかなり深い関心を抱いていたのだが、さらに最近目にした『中世の開幕』(講談社現代新書)の林家辰三郎氏と、『決断のとき〜歴史に見る男の岐路』(文芸春秋)の杉本苑子氏が、共に平清盛白河法皇祇園の女御の妹との間に生まれたとの落胤説を強く押し出しておられるので、良い機会とばかりにそれを前提にした生年・没年入りの後白河院平清盛相関図を描いてみた(下図参照)。

    

 これをつらつら眺めると、平清盛後白河院にとっては9歳年上の曾お爺さんの息子であり(何と表現するのか)、崇徳上皇にとっては1歳年上の兄であり、後白河院の父の鳥羽法皇にとっては15歳年下の叔父さんに当たるというとんでもない関係になる(何とも人騒がせな白河法皇)。そして、この図を念頭おくと、この熊野詣の時の後白河院は男盛りの34歳、平治の乱で源氏が一掃されて向かうところ敵なしの清盛は43歳。

 さらにイメージを膨らませるために「図版公家列影図」から太政大臣当時の平清盛、「図版天子摂関御影」から後白河院崇徳上皇の姿を下に提示してみた。


       

中右記』(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130308)や『長秋記』(※4)など当時の公卿の日記から、白河法皇祇園女御の清盛への偏愛ぶりと白河法皇の清盛への異常ともいえる官位の引立てから、清盛が法皇落胤であることは宮廷でも喧しく膾炙されていた事が窺われ、それらを考え合わせるとこの時の二人がそのことを知らなかったはずはない。

 そう、この時、白河法皇の息子であることを誇る清盛の胸中に、後白河院に対して「この今様狂いのうつけものめ」という思いがあったとしてもおかしくはない。そう思うと熊野詣だけでなく、保元の乱平治の乱、清盛が後白河院を鳥羽に幽閉した治承のクーデターなどなど、共に横紙破りと宮廷を嘆かせた強烈な二人の男がどのような本心でこれらに対峙していたのか、真に興趣が尽きないのである。

(※1)法楽(ほうらく):法会の終わりに詩歌を誦し、または楽などを奏して本尊に供養する事。

(※2)御幸(みゆき):天子または上皇法皇女院の外出。天子の場合は行幸とも。

(※3)唐車(からぐるま):屋根を唐庇に設えた最上の牛車で装飾が華麗。通常は上皇東宮女院親王などの外出に用いる。

(※4)長秋記(ちょうしゅうき):公卿・源師時の日記。師時は祖父・父から伝えられた有職故実に精通し、また、皇后令子内親王に亮権大夫として30年仕え、その後も待賢門院の別当を勤めた事から日記には後宮関係の記事が豊富とされる。


参考文献は以下の通り

『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』 榎 克朗 校注 

『日本の歴史6武士の登場』 竹内理三 中公文庫

『決断の時〜歴史に見る男の岐路』 杉本苑子 文芸春秋