後白河院と文爛漫(16)公卿も書く(11)『台記』(4)欠ける望

藤原頼長は保安元年(1120)5月に知足院関白藤原忠実の次男として生まれたが、その半年後の11月12日、父忠実は白河法皇によって内覧停止の宣旨を受け、翌年正月22日に内覧停止は解かれたが関白辞任に追い込まれ、代わって内覧宣旨を蒙り関白に補されたのは忠実の長男忠通であったが、忠実はこれ以降白河法皇崩御までの11年間宇治での蟄居を余儀なくされた。

 この事態について天台座主慈円は、父忠通が「代々の例コノ職ハ父の譲ヲ得候テウケ取」るものと主張したため、法皇の意図ではあるが忠実が自ら関白を辞退する手続きをとることになったと『愚管抄』に記している。

 さて忠実を失脚に追い込んだ白河法皇は、在位中の応徳3年(1086)8歳の長子親王立太子させてその日に譲位し、上皇としてその親王を後継に堀河天皇として即位させ、堀河天皇が在位中に崩御した際には、譲位の形を取らずに堀河天皇皇子で5歳の鳥羽天皇を「上皇の詔」で即位させ、さらには鳥羽天皇中宮待賢門院腹の皇子が5歳に達すると、21歳の鳥羽天皇を退位させて崇徳天皇として即位させている。

 この中で注目されるのは、上皇鳥羽天皇即位の「詔」に藤原忠実摂政にすることが明記されていた事で、外戚摂政になり、かつ摂関家は家長によって後継指名されるのが慣例であった当時、鳥羽天皇の生母が摂関家ではなく公季(きんすえ)流であった事から異例とされた。

 この「詔」の背景には、鳥羽天皇の即位に際して摂関家嫡流藤原忠実の他に、鳥羽天皇生母の父で外戚藤原公実(きんざね)が摂政の地位を望ん事があり、白河上皇は摂関狙いの外戚争いの種を潰すためにも摂関家外戚関係とは関わりなく摂政になるという「家格」としての摂関家を確立させ、その後継指名を上皇が行うことで専制支配を強める意図を含んでいたと思われる。

 ところで、これより100年前の寛仁2年(1018)、長女彰子と一条天皇の間に生まれた11歳の外孫・後一条天皇に、自分の三女で天皇の母の妹、つまり叔母さんにあたる威子を女御としておしつけて「一家立后三后、未曾有なり」と周囲を驚嘆させた藤原道長は、威子立后の日に数多の公卿を邸宅に集めて祝宴を開き、「この世をば、わが世と思ふ、望月の、欠けたることも、なしと思へば」と自ら即興の歌を詠ったと道長のライバル藤原実資は『小右記』に記している。

「盛者必衰」の理と同様「満ちれば欠ける」も世の習い、頂点を極めた御堂道長から下って5代目に当たる藤原頼長の『台記』は正に摂関家自壊の物語でもある。


参考文献=『日本の歴史07 武士の成長と院政』 下向井 龍彦 講談社学術文庫