後白河院と文爛漫(23)公卿も書く(18)『兵範記』(2)謀叛人

 鳥羽法皇崩御からわずか3日後の保元元年(1156)7月5日、後白河天皇側は崇徳上皇藤原頼長が反乱共謀を企てたとの容疑で「京中の武士の停止」を打ち出し、出動を命じられた平清盛の次男・基盛が翌6日に藤原忠実・頼長に仕えて京と宇治を往還する大和国武士・源親治(みなもとちかはる)を逮捕する挙にでて、忠実・頼長並びに崇徳方の武士の京への立ち入りが出来ない情況を作り上げた。

 そうした中で、故鳥羽法皇の初七日法要の営まれた7月8日付『兵範記』で平信範後白河天皇側がさらなる攻勢に出た有様を次のように記している。

「今日、蔵人左中弁雅教(まさのり)朝臣、勅定を奉り、御教書(※1)を以て諸国司に仰せて云はく、入道前太政大臣(忠実)ならびに左大臣(頼長)、荘園の軍兵を催すの由、其の聞え有り。慥(たしか)に停止(※2)せしむべしてへり。今日、蔵人左衛門尉高階俊成ならびに源義朝・隋兵等、東三条に押し入り、検知・没官(※3)し了(おわん)ぬ。(中略)子細筆端に尽くし難し。」

 上記によると、後白河天皇側は忠実・頼長親子が「軍兵」を動員して謀反を企てたとの容疑を以て一気に強硬姿勢に転じ、摂関家正邸として代々藤氏長者に相続されてきた東三条殿を謀叛人頼長から没収したのであり、長年摂関家の家司を勤める平信範が「子細筆端に尽くし難し」と驚き嘆くのも無理のない事であった。

 こうして、一条天皇外戚としての権威を楯に権謀策術を用いて摂関家の基盤を築いた藤原兼家の邸として以来、代々藤氏長者摂関家正邸として相続され頼長が領有していた東三条殿は、謀叛の咎に問われた頼長から朝廷が接収したのであった。




(上図は筆者が試みた「東三条殿」位置。因みに後白河天皇の御所「高松殿」は「東三条殿」の南隣に位置し規模はおよそ半分であったようだ)


(※1)御教書(みぎょうしょ):三位以上の公卿の出す文書で、家司が奉書の形式をとって下達するもの。

(※2)停止(ちょうじ):さしとめる。やめさせる。

(※3) 没官(もっかん):重罪を犯した者の父子・家人・資財・田宅などを朝廷や幕府が取り上げる事。律の付加刑として始まり、人間を没官した場合は奴婢とし、土地を没官した場合は没官領といった。


参考文献:『保元の乱平治の乱』河内 祥輔 吉川弘文館