後白河院と遊女(6)師の乙前にささげる深い哀悼

乙前を今様の師に迎えて11年を経た後白河院は、上皇として二条・六条天皇に次ぐ皇位を平家出身の最愛の女性建春門院との間に生まれた高倉天皇を即位させ、政敵平清盛とは緊張感を孕みながらも表面上は穏やかに治天の君としての権力基盤を固める傍ら、自らのライフワーク「梁塵秘抄」初撰も着々と進めていた。

そんな最中に84歳を迎えた乙前が重態との知らせをうけた後白河院は、お忍びで御所の近くに住まわせていた師を見舞う。

後白河院が娘に抱き抱えられながら身を起こした乙前と対面すると、かなり衰弱しており、彼女の現世安穏後生善処を願って法華経一巻を読み聞かせ、そのあとで、「私の歌が聞きたいかね」と問うと、乙前は嬉しそううに頷くので、源清経の危篤の折に目井が謡って奇跡的に全快したというゆかりの歌、

像法(ざうほう)転じては、
薬師の誓ひぞ頼もしき
ひとたび御名(みな)を聞く人は、
よろづの病ひなしとぞいう、    

を、二、三度謡い聞かせると、乙前は法華経よりも有り難がってじっと聞き入り、院の見事な謡いぶりに「このような素晴らしい歌を賜って、きっと命も生き永らえましよう」と、手を摺りあわせて泣きながら喜ぶ様に、院はしみじみと哀れを感じて御所に戻る。

その後、仁和寺の理趣三昧の勤行(※1)の折に、乙前が2月19日に没した事を知らされた後白河院は、人に先立たれる世のはかなさは初めてではないが、長きに亘って多くの今様を教わった師であるだけに、悲しみもひとしおで、

次の日から、朝には懺法(せんぽふ※2)を詠んで六根の罪障を懺悔し、夕方には阿弥陀経を詠んで西方の九品(くほん)往生を祈る事を50日続け、さらに、一年間に千部の法華経(※3)を読み終える。

そして迎えた翌年の2月19日、後白河院は仏に乙前の一周忌の追善である事を申し上げて法華経一部を詠み終えて、乙前には経よりも歌の方が目出度かろうと、彼女から習った主なる今様を謡い、さらに暁方から足柄十首・黒鳥子・伊地古・旧川などを謡い、最後の締めに長歌を謡って乙前の後世を弔った。

こうして、青墓の傀儡子から身を起して今様の名人と評された乙前は、時の最高権力者の筆によって、800年を経て私たちに語り継がれる栄誉に浴することになる。

※ 1 理趣三昧の勤行:『理趣経』を読誦する真言宗の勤行。天皇即位前から袈裟をまとって経を唱えていた後白河院は、仏教に深く帰依しており、乙前の死の翌年に出家する。

※ 2 懺法:天台宗の修行法の中に、法華三昧と常行三昧があり、これに用いる典礼文をそれぞれ法華懺法及び例時作法と呼び、どちらにも本式の声明(仏教音楽)と日常用の簡単な曲節があり、法華懺法は朝の勤行に用いられた。後白河院は読経と今様で鍛えたからか声の良さでも定評があった。

※ 3千部の法華経法華経一部は8巻28品、漢字で六万余字もあるから、短時間に全てを読み通すのは不可能としても、一日平均三部を365日読み通すのは並みの努力ではない。

◎ 後白河院が「祝祭都市京都」をこよなく愛していた事が、院が描かせたとされる『年中行事絵巻』から見て取れる。そこには、宮中の御斎会だけでなく、祇園御霊会、加茂祭、梅宮祭、稲荷祭、紫野の今宮祭、城南宮祭とあちこちのお祭りが描かれ、かつ、当時の人々が身分の上下にかかわらず祭好き、遊び好きであった事も読み取れる。

次の絵は貴族の鶏合(上)と庶民の鶏合(下)(いずれも『年中行事絵巻』から)。