後白河院と遊女(2)殿上と遊芸の近接

20歳で母の待賢門院を失った悲痛な心境を、
「久安元年8月22日、待賢門院亡せさせたまひにしかば、火をうち消ちて闇の夜に対ひたる心地して、昏れ塞がりてありしほどに、50日過ぎしほどに」と記した雅仁親王は、

兄の崇徳上皇から、同居せよ、との仰せを受けて兄の御所で暮らすことになるが、初めは気後れから今様を慎んだものの、好きなことは止められないと、再び今様を再開し、鳥羽殿で50日間謡い明かし、東三条殿では人を集めて40余日も夜毎に日が明けるまで遊びながら、近臣や神崎のかねなどと互いに学びあって歌数を増やしてゆく(下は東三条殿『年中行事絵巻』より)。

   

しかし、秘蔵の歌やもっと技巧の高い歌も知りたいと思い始めた親王は、いち、めほそ、九郎、蔵人、禅師、千手、二郎(※1)などの女芸人から多くの歌を聴き、さらに近臣の家成卿に寄宿するささなみ(※1)が五条に住む乙前(※2)の弟子と知って、家成卿が亡くなってから、ささなみを3〜4ヶ月に渡って御所に留めて歌わせたりもし、

そのうえ、近臣の資賢や周囲が初声(※1)の声が素晴らしい言えば、伝手となる守仁親王(※3)の乳母の坊門に初声を御所に伴なうように頼むが、崇徳上皇と同じ御殿であるのを初声が憚るので、押小路京極の館に初声を案内させて、夜もすがら初声の歌を聴き、雅仁親王自らも謡い、

公卿や殿上人は勿論のこと、下級の蔵人、召使の女、雑役に奉仕する女官、京の男女、江口・神崎の遊女に至るまで、今様を知っていると思われるものは、上手下手に関係なく手当たり次第に呼び止めて、雅仁親王が声を合わせて謡っている間に、近衛天皇が亡くなり、なんとなく、今様を中断することになった。

※ 1 いち、めほそ、九郎、蔵人、禅師、千手、二郎、ささなみ、初声:すべて、女芸人の名前
※ 2 乙前:老女芸人で後白河院の今様の師となる
※ 3 守仁親王後白河院の息子で二条天皇となる。
※ 4 坊門:守仁親王二条天皇)の乳母で後見役を兼ねた別格の女房。


(注)後白河院は「伴大納言絵巻」「吉備大臣入唐絵巻」などの絵巻物や」「信貴山縁起」「粉河寺縁起」などの縁起絵、「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」などの草紙絵を描かせた芸術のパトロンとしても知られるが(隠居Journal(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20071121)、天皇即位と共に長年廃れていた宮中行事を復活させると共に、復活させた宮中行事や京の祭祀、そして市井の風景を「年中行事絵巻」に描かせ、上級貴族しか登場しなかったそれまでの絵画とは異なり、躍動する庶民や遊芸人を活き活きと登場させている。


下はその[年中行事絵巻]から「宮中内宴の妓女による舞楽の光景」