後白河院と平家の女(余話)中宮の出産と「物の怪」

 私は「源氏物語」のヒロインの中では六条御息所が一番好きなのだが、その彼女は嫉妬に狂った生霊と化して光源氏の正妻・葵の上を夕霧を出産した直後に呪い殺す。

 その「源氏物語」の作者が書いた「紫式部日記」は、彼女が仕える藤原道長の娘で一条天皇中宮彰子が、寛弘5年(1008)年7月に出産する場面から始まるが、その中でも中宮にとり憑く「物の怪」を憑人(よりまし)に追い移して調伏するために、もうもうと立ち込める護摩の煙の中で延暦寺興福寺の高僧・陰陽師・修験者が大声で張り上げて読経をするなんとも騒々しい雰囲気の中で、皇子誕生をひたすら祈願する道長を始めとする一門の緊迫した動静が活き活きと描かれている。

  


 特に中宮に取り憑いた物の怪の描写は圧巻で、
「今お産みになるという時に、御物の怪の妬み罵る声などの恐ろしい事よ。監の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人には興福寺の僧、右近の蔵人には法住寺の律師と、三人の女官をそれぞれ憑人にして祈祷師に付けて何とか物の怪を調伏したが、宮の内侍を担当した阿闍梨は物の怪が移った憑人に引き倒され、終には念覚阿闍梨を召して大声で祈らせる。」

そして、「阿闍梨の祈祷の効験が薄いのではなく、御物の怪の方がとても手強いのです」と作者に言わせている(「紫式部日記 紫式部集」新潮日本古典集成を参考にした)。


下図は皇子誕生の3日・5日目の夜に行われる「産養」の様子を描く『紫式部日記絵巻』の部分(「院政期の絵画」カタログより)。


 


ところで平家物語「御産の巻」は、治承2年(1178)11月12日における清盛の娘・中宮徳子の皇子出産の場面を描き、徳子の皇子出産を巡る平家一門・後白河院・公卿それぞれの思惑を浮き彫りにしているが、その中でも、中宮徳子に取り憑いた手強い物の怪を撃退したのは、錚々たる高僧・陰陽師・修験者ではなく、わが後白河院であったという場面が面白い。以下の文章は「平家物語」(新潮日本古典集成)を参考にした。



<寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿をはじめたてまつりて、太政大臣以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官位階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり>


 しかし、物の怪などが次々に立ち現れて、仁和寺御室の孔雀経の法、天台座主の七仏薬師の法を始め金剛童子の法・五壇の法・など考えられる全てを修し、護摩の煙が御所中に満ちても、徳子は陣痛が長引くだけで中々お産に至らない。

 そこで、新熊野へ御幸するために精進中であった後白河院中宮産所の錦帳近くに寄って、今様で鍛えた声を張り上げて千手経を誦経すると、あれほどしつこかった物の怪も鎮まり、後白河院は「たとえどんな物の怪でも、この老法師がお傍にいる以上中宮に近づくことは無い」、とのたまって、更に経を唱えると中宮はご安産であったばかりか皇子まで出産したのである。

 清盛の息子で中宮の亮を務める重衡が「御産平安、皇子御誕生」と高らかに告げると、入道相国清盛は嬉しさの余り声を上げて泣き、さらに感極まってか、後白河院の還御の際に、砂金一千両、富士綿二千両を進上した事が「法皇に対して一修験者に対するような禄を贈っている」と批判されていると書かれているが、つまりは、後白河院は今様だけではなく、加持祈祷師としても喰ってゆけるだけの腕前であったのだ。


それにしても、何としても避けたかった平清盛の孫皇子の出産に寄与せざるを得なかった後白河院の心中や如何に!!


 以上の事から見えてくるのは「物の怪」「怨霊」「生霊」などは陰謀と嫉妬の渦巻く王朝時代の人々の「心の闇」を知る上で欠かせない現象であったということ。