保元の乱は、後白河天皇の兄である崇徳上皇の配流、平家方は平清盛の手による叔父忠正とその息子3人の斬首、源氏方は源義朝が父為義と弟達を処刑するという残忍な結果で京中の人々を震撼させたのであるが、このこと自体が、実に3百年ぶりの死刑の復活に敢えて踏み出して反対勢力を根絶しなくてはならなかったほど、美福門院・後白河天皇体制の基盤が脆弱であったことを示している。
後白河天皇政権は、乱直後の保元元年10月に「保元新制7箇条」の制定とその執行機関ともいえる記録所を設置し、翌年には荒廃著しい内裏を復興さると共に長い間絶えていた内宴を始めとする宮中の年中行事を復活させて、天皇中心政治の本来の姿を次々に打ち出してゆく。
これらの一連の政治改革は、長い間、法皇・上皇・天皇と三つ巴に分裂した皇室とその近臣たちが繰り広げる不透明で陰湿な政治にうんざりしていた人々に、これからはは天皇に一本化した政治が続くと安堵させたのであるが、それもつかの間、後白河天皇は即位三年後に二条天皇に譲位して院政を開始する。
ところで、この後白河天皇の譲位については、摂関家に仕えた平信範の「兵範記」に「仏と仏が取り決めた」と記された事から、摂関家を蚊帳の外に置いて、既に出家していた美福門院と、法体の後白河天皇の側近藤原信西の間で決めた事が窺える。
そこで、後白河天皇に近侍してこれほどの力を発揮した藤原信西に触れると、彼は当代きっての文章の博士と言われるほどに学問に優れ、鳥羽院と美福門院に仕えたのだが、出自が低いために出世がかなわず、官位の序列からはなれて自由に活動することを目論んで出家して、妻の紀伊二位が雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母であったことから親王の養育係を務めながら雅仁親王が即位する機会を虎視眈々と狙っていた。
そんな彼にとって、近衛天皇の夭逝は願ってもないチャンスであり、鳥羽院・美福門院・藤原忠通と諮って中継ぎながら雅仁親王の即位を実現させ、後白河天皇の名の下に、自らの考えに基づく政治改革を次々に実現させ、鮮やかとも言える政治手腕を周囲に印象付けたのであるが、凄惨な保元の乱後処理も天皇の名を借りた彼の指示による。
しかし、『驕る者は久からず』は何も平家の滅亡を待つまでも無く、後白河体制下で強力な権力を手にした藤原信西は、自分の子息を次々に富裕国の受領に任じ、さらに後白河院庁の要職に充てた事から、藤原信頼・源義朝を始めとする後白河院の近臣と藤原経宗・藤原惟方を始めとする二条天皇の近臣の反発を招き、結束した彼らの反乱によって首を獄門に晒されることになる。
獄門に晒される藤原信西の首
戦いはこれで終わらず、共通の敵を倒した勝者側は主導権を巡って内部争いを起し、平清盛を味方につけた二条天皇方によって、藤原信頼・源義朝は打ち倒され、『平治の乱』を終えてみれば、全ての近臣を失った後白河院は、平清盛に警護された強固な美福門院・二条天皇体制を前になす術も無く立ち尽くすしかなかったのである。