後白河院と平家の女(3)建礼門院(上)皇子出産を巡る動乱

 思えば治承元年(1177)6月の未遂に終わった鹿ケ谷の謀略から、治承3年11月に清盛が数千騎を率いて入洛し後白河院を鳥羽に幽閉して院政を停止した治承のクーデターに至る動乱は、偏に高倉天皇中宮で清盛の次女の徳子が皇子を出産するか否かを巡るものであった。


 平清盛にとって、娘・徳子が高倉天皇の後継皇子を出産すれば、孫の幼帝を即位させるために高倉天皇を譲位させ、さらに譲位した高倉上皇院政を開始させれば、政敵・後白河院を政権から追放し、自らは天皇の外祖父・上皇の舅として絶大な権力を手にして、平家一門の長期に亘る繁栄を手に入れることになる。


 他方、後白河院と近臣にとっての徳子の皇子出産は、後白河院治天の君としての地位の喪失と、平家一門による官位・官職の独占と階層固定化により、院・近臣としての栄達の道が閉ざされることを意味し絶対に容認できない事であった。


 こうした緊迫した情勢の中で、西光を始めとする院の近臣達によって、徳子が皇子を出産する前に高倉天皇を譲位させて後白河院の若君を天皇に即位させ、後白河院体制を磐石にした上で平家一門を政権から排除する企みが京都・東山鹿ケ谷山荘で勧められたのが「鹿ケ谷事件」ではなかったか。後白河院がお忍びでその席に臨んでいたことは充分考えられる事である。


 しかし、鹿ケ谷謀議は密告によって未遂に終わり、平清盛は謀議に連なった後白河院の近臣を処刑・処罰はしたが、謀議の首謀者・後白河院を処罰することはできなかった。清盛としては徳子が皇子を出産するまでは脆弱な高倉天皇を支える為には後白河院との提携を継続する他は無かったのである。


 また、思わぬ密告で計画が未遂に終わった後白河院にとっても、次の清盛打倒の機会までは、何とか清盛の緊張を解く必要があり、そのためにも、中宮・徳子の出産に際しては、六波羅中宮御所にお忍びで度々御幸して中宮の枕元で安産の祈祷をし、言仁親王安徳天皇)誕生当日には、自ら産室にまで入って集まっていた僧侶達を励まして自ら大いに誦経されたと、井上靖著「後白河院」では、院の近臣・吉田経房に当時の後白河院の涙ぐましい努力を語らせている。


 これを史実の記録で見れば、前出・棚橋光男著「後白河法皇」(講談社選書メチエ)「後白河の行動一覧(践祚後)」の、治承2年(1178)の行動として、中宮・徳子の出産に際して度々後白河院六波羅中宮御所に御幸した事が記載されている。

隠居Journal:http://d.hatena.ne.jp/K-sako/ 


【治承2年(1178)(52歳)】
2.15 若狭局嵯峨堂(供養) 2.26 法金剛院(御遊) 2.29 熊野精進屋 3.5−3.28 熊野社 5.3 法勝寺(三十講) 5.9 新熊野社・新日吉社(小五月会) ?.14 山科殿 ?.17 新制発布 ?.28 最勝寺(御八講始) 7.7 法勝寺・最勝光院 7.18 新制発布 7.30 木津山荘(方違) 8.1 鳥羽殿 8.10−8.21 四天王寺 9.18 鳥羽殿 9.20 石清水八幡宮 10.7 中宮徳子六波羅御所 10.11 中宮徳子六波羅御所 10.25−10.27 鳥羽殿・中宮徳子六波羅御所 11.12 中宮徳子六波羅御所(言仁親王誕生) 12.8 最勝光院(念仏会結縁)・中宮徳子六波羅御所