後白河院と平家の女(3)建礼門院(下)妹達〜政略結婚の果て!

16歳の建礼門院平徳子)が12歳の高倉天皇へ女御として入内したのは、天皇の外祖父の地位を狙う清盛の意を受けた清盛の妻・時子と時子の義妹・建春門院(平滋子)との画策によるものであった。

本来であれば女御として入内できるのは摂関家や大臣の姫君に限られていたが、何と言っても建春門院は高倉天皇の母であるばかりか治天の君後白河院の寵愛深い皇太后でもあったし、後白河院としても『高倉天皇の父帝としての後白河院政』を安定的に維持する上で清盛の武力が必要であったことから、後白河院自らが徳子を養女として清盛の身分の低さを補ってこの婚姻は執り行われたのであった。



 建礼門院としても、平相国清盛の娘として女御の宣旨を下され「天皇の母(国母)として、60余人の女房にかしずかれ、摂政以下、大臣、公卿に誉めそやされた」我が身が、まさか壇ノ浦で救い出されて人里はなれた大原の賤の庵で息子安徳天皇の後世(ごせ)を弔って生きることになろうとは思いもしなかったであろう。

つまり、建礼門院徳子は父清盛と母・時子の並々ならぬ野望の犠牲になったのであるが、それは彼女一人ではなかった。ここでは、建礼門院同様に政略結婚の犠牲になった妹達を角田文衛著「平家後抄 上」(朝日選書)を参考に取上げてみたい。


(1)建礼門院徳子

徳子については高倉天皇への入内だけで事は終わっていない。清盛が後白河院を幽閉して安徳天皇を即位させた事から後白河院の王子・以仁王の「平家追討令旨」に呼応して頼朝・義仲達を始めとする清和源氏が挙兵し、さらに高倉上皇の病状が重篤になるに及んで、進退窮まった清盛は事もあろう徳子に後白河院への入内を求めたのである。さすがに徳子は髪を切ってこれを拒否している。


(2)盛子(みつこ)

 清盛は摂関家との関係を強化する為に関白太政大臣・藤原基実の正妻に娘・盛子を配したが、頼みの基実は24歳で夭折し、その時盛子は11歳で子供を産める状況ではなかった。そこで清盛は基実の遺領のうち殿下渡領だけを次の関白の藤原基房に渡し、残りの膨大な所領(荘園・邸宅)や家伝の日記・宝物は基実の遺児・基通が成人するまで預かるとの名目で盛子に相続させて清盛自身がこれらを支配・管理した。その後に盛子が24歳で没すると、後白河院が院領としてこれらの摂関家領を没収した事が清盛の後白河院幽閉に繋がったと見られている。

殿下渡領(でんかわたりりょう)=藤原家の氏の長者として摂関家が伝領する所領。


(3)完子(さだこ)

 藤原基実の夭折により途絶えていた摂関家との血縁関係を復活させるために、清盛は元服した(11歳頃)基実の遺児・基通に自分の娘・完子を正妻として嫁がせた。完子は非常に肌が美しく水晶の玉を薄衣に包んだように御衣(おんぞ)も透き通って見えたので「衣通姫(そとおりひめ)」と呼ばれるくらいであったとか。

 基通が関白に任じられると完子は北政所と呼ばれその後従三位に叙せられたが、寿永2年7月の平家西走において完子は安徳天皇に供奉して都を離れたが、夫基通は平家の行く末を見限って既に延暦寺に逐電していた後白河院の許に馳せ参じたのである。

 建礼門院と共に壇ノ浦で源氏軍に引き上げられた完子は、文治元年(1184)4月に義経に護送されて鳥羽に帰還し都に入るのだが、夫・基通は既に後白河院の寵を受けて後鳥羽天皇摂政に返り咲いていた。

 完子は姉の建礼門院と共に出家して安徳天皇と平家一門の菩提を弔って生きたのである。


(余話)御子姫君

 清盛が厳島神社の内侍(巫女)に産ませたことから「御子姫君(みこのひめぎみ)」と呼ばれたが、(1)の建礼門院の項で述べたように、窮地に陥った清盛が徳子を後白河院後宮に入れようと諮って徳子に拒まれ、代わりに院の後宮に入れたのがこの御子姫君で、母親譲りの美しくあでやかな女性であったとされる。

 後白河院はさすがにこの申し入れを拒んだが、清盛は女御の入内に匹敵する錚々たる女房陣と調度を備えて強引に御子姫君の入内を推し進めた。しかし、清盛のせっかくの画策も後白河院が彼女に全く関心を示さないばかりか、御子姫君付の上臈女房を寵する有様で、清盛も無念の情を抑えがたかったそうである。