壇ノ浦における平家の滅亡により、朝廷への発言力を増した源頼朝の推挙を得て、これまで一貫して親鎌倉の姿勢を貫いた藤原(九条)兼実は、藤原(近衛)基通に代わって文治2年(1186)3月に念願の摂政・藤原氏の長者となる。
ところがこれを不服とする基通が摂関家領を兼実に渡そうとしない事から、頼朝の代弁者・大江広元と後白河院の代弁者・丹後局との間で協議がなされ、粘りに粘った二人の交渉結果は、家領の一括伝領ではなく分割案(前摂政・基通は高陽院領を、現摂政・兼実は京極殿領)と決まり、これをもって、摂関家が氏の長者として家領を一括伝領する体制は崩れ、近衛家と九条家の二流に分立することになるが、その後相次いで二条・一条・鷹司家が加わり5摂家にまで拡大してゆくことになる。
九条兼実は日記「玉葉」で、藤原基通と後白河院との男色関係を匂わせているが、この摂関家分立の画策については、幼い後鳥羽天皇の行く末に九条兼実・源頼朝同盟が立ちはだかる事を憂慮して、今のうちに兼実の経済基盤と影響力を弱めておきたいと念じた後白河院の政治的な意図が強く働いたと私は推測するが、それにしても院の代弁者としての丹後局は、強面の鎌倉方交渉人を相手に、タフ・ネゴシエーターとしての役割りを見事に果たしたといえる。
関白・藤原基通(公家列影図より)
関白・藤原兼実(公家列影図より)