何時の世もやっかみはあるもので、一度は後白河院の前で今様を披露した乙前と同じ美濃の青墓出身の遊女さはのあこ丸(梁塵秘抄を元に私が作った別紙参照)が、後白河院に召抱えられた乙前を妬んでか、「乙前ねえさんはすごく上手だけど、目井の弟子といっても、目井は実の娘のようにはまさか教えていないはずよ」と噂していると院の近臣から聞かされた乙前の次の反論で
「監物清経(※1)尾張へ下りしに、美濃の国に宿りたりしに、十三でありし時、目井に具してまかりたりしに、歌を聴きて、『めでたき声かな、いかにまれ、末徹(すえとほ)らんずることよ(※2)』とて、やがて相具して京へ上りて、目井もやがて一つ家にいとほしく置きたりしに、『年来(としごろ)の替りには、これに歌教えよ』と申ししかば、誓言(ちかごと※3)を立てて、みな教えて候ひしが」
13歳の乙前が師匠の目井に伴なわれて西行の外祖父源清経の前で今様を謡ってその才能を見込まれていたこと、その目井を京都に囲う際に乙前共々後援し、時を経て「お前の面倒を見てきた代りに乙前に正統の弟子として今様を教えるように」との、清経の命で乙前が目井の相伝の弟子となったことを、私は始めて知った。
さらに、乙前が語る源清経と目井の凄まじいありさまを後白河院はためらいもなく書き記す。
「清経、目井を語らひて、相具して年来住みはべりけり。歌のいみじさに、志無くなりにけれど、なおありけるが、近く寄るもわびしくおぼえけれど、歌のいみじさに、え退かでありけるに、寝たるが、あまりむつかしくて、空寝をして、後ろむきて寝たり。背中に目をたたきし睫毛の当りしも恐ろしきまでなりしかど、それを念じて、青墓へ行く時はやがて具して行き、また迎えに出で、具して帰りなどして、のちに年老いては、食物あてて、尼にてこそ死ぬるまで扱ひありしか」
かつては色香に魅かれたが、色褪せた今は傍によられるも鬱陶しい女を傷つけないように、嫌悪感を懸命に抑えて、男は女と共寝はするが、余りにも気味が悪いので空寝をしたり、背中を向けて寝たりして何とか我慢しているのに、女の方は男の背中に顔をすり寄せて、まばたきをしたその睫毛が男の背中に当った気配までがぞっとする。
それでも女が、青墓(美濃)から声がかかって今様の催しに出かける時は、その行き帰りに女の共をして巨匠としての体面を保ってやる。
愛情は既に冷え切っているのに、女の芸に惚れ込んで手を切ることの出来ないい男の何ともいえない心情を、後白河院さん、ここまで書くの、と、言いたくなるくらい、院は率直に書き記している。
しかし、後白河院が悪趣味すれすれの筆で表現したかったのは、目井が年老いて尼になっても死ぬまで面倒を見た源清経のパトロン魂を讃えたかったからではないか。
貴族の子女は母方の家で養育される当時を鑑みると、母方の祖父源清経の型破りさが、西行の出家に影響しないはずは無いと思えてくる。
そして、これまた今様好きの環境で育った後白河院の母待賢門院、今様狂いの外祖父を間近に見て育った西行、正真正銘の今様狂いとなった後白河院は案外近い所に居たのだ。
※ 1 監物:中務省に属し大蔵省・内蔵寮(くらりょう)などの出納を管理する職。
※ 2 末徹る:将来性がある
※ 3 誓言:秘伝を受ける弟子には心得事などがあってそれを守るという誓約をさせる。