後白河院と美福門院〜保元の乱『舞台の主役と影の主役』

 美福門院腹の近衛天皇の即位で皇位が遠のいたことを悟り、今様に寝食を忘れて打ち込んでいた雅仁親王天皇の座に引き摺り出したのは他ならぬその美福門院であった。

美福門院の名は藤原得子(ふじわらなりこ)。父は伊予や播磨などの富裕な受領や太宰の大弐などを歴任した権中納言藤原長実。官位は低いが院政の強固な経済基盤の担い手として急速に台頭した院近臣の一族で、貴族の間では「無才の人、納言に昇るはいまだかつてあらず」とその無能さを酷評されながらも(藤原宗忠の日記『中右記』)、近衛天皇の母となった得子の栄誉により死後に正一位太政大臣を贈られた。

美福門院は目端の利く人らしく病弱な息子近衛天皇のその先を見据えて、生後まもなく母に死別した雅仁親王後白河院)の息子と、崇徳天皇の息子を猶子にして手元で育てていたが、17歳で近衛天皇が夭逝した時は、世情の誰もが、皇位を経ない遊び人雅仁親王の息子の守仁親王よりも、和歌にも優れ天皇在位時の評価が高かった崇徳上皇の息子の重仁親王皇位を継承するものと疑わなかった。


 

崇徳院後白河院『天子摂関御影』より)

しかし、美福門院の腹はそうではなかった。
重病の床に伏せる鳥羽法皇の死後の自らと一族の権力基盤を維持するためには、ライバルの待賢門院の一族の閑院流と強大な摂関家が手を結ぶ崇徳上皇系統の皇位継承を是非とも阻止し、雅仁親王の息子の守仁親王を即位させる必要があった。

しかし、天皇外戚皇位継承を決める摂関時代と異なり、天皇を出す家の「王家」が皇位を決める院政時代では、皇位を経ない父親を持つ息子が天皇に即位するのは筋違いである。

そこで、死期を悟った重態の鳥羽法皇は、寵愛する美福門院と近臣を交えて協議した結論が、ゆくゆくは守仁親王を即位させるために、当面の中継ぎとして「目に余る道楽者」と自らが酷評した雅仁親王の即位と守仁親王立太子(皇太子として決める)宣下を同時に行ない、時期を見て守仁親王を即位させることであった。


 

後白河院と息子の二条院『天子摂関御影』より)

さらに、自分の死後に皇位継承をめぐって崇徳上皇派の反乱が生じることを恐れた鳥羽法皇が、「今後は美福門院を母妃として関白忠通・大臣以下が心を一つに支えるように」と言い残しているように、美福門院を後白河天皇の母妃として王家家長(院政者)の地位につかせて結束を固めさせたのだが、この不明瞭な皇位継承が、王家・摂関家・武士団が親子・兄弟間で血で血を洗う保元の乱への導火線となったのである。

鳥羽法皇亡き後、広大な荘園を含む資産の大半は美福門院腹のあきこ内親王に受継がれ、近臣の多くも美福門院と守仁親王側に流れ、こうして、後白河天皇は財政基盤も臣下の基盤も弱体な状態で危うい船出を余儀なくされたのである(下図参照)。