後白河院と待賢門院〜なぜ、和歌ではなく今様か(2)親王のライフ

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思う」は落語の崇徳院でお馴染だが、後白河院の兄の崇徳上皇歌人としても優れていた。また、息子の高倉天皇も仕えた歌人藤原定家の手ほどきもあってか、幾つかの歌を残しているが、後白河院が和歌の一首も詠んだという話はついぞ聞かない。和歌を詠むことは最低限の教養とされる帝王学を身につける機会から外されていたからか。

「そのかみ、十余歳の時より今にいたるまで、今様を好みて怠ることなし」と梁塵秘抄口伝に自ら語った後白河院が十余歳の時は、どういう状況におかれていたかを理解するために、父の鳥羽天皇以降の皇位順位表を即位時の年齢付で作ってみた(当時は数え年)。



 
 これを見ると、後白河院天皇の29歳が突出している。ある本によると院政時代の天皇即位の平均年齢は7歳であり、六条天皇に至っては満一歳にも達していなかったそうだ。

 雅仁親王鳥羽上皇の第4皇子として生まれた時、長兄の崇徳は天皇の座にあり、中の二人の兄が病弱で夭逝した事もあって皇位継承としては悪くない位置に居た。しかし13歳の元服と同時に、鳥羽上皇が寵愛する美福門院に皇子(近衛天皇)が産まれ、その翌年に崇徳天皇に皇子(重仁親王)が誕生したことで急速に皇位が遠のく。

皇室に生まれても、天皇に即位しない男子は出家して出世を目指すか、あるいは数ある親王の一人として趣味三昧の生涯を選ぶ他は無く、そんな状況下で雅仁親王は、出家を念頭に置きながらも、今様の第一人者として生きることを選んだのではないかと、私は『梁塵秘抄』口伝から推測する。

梁塵秘抄』は現存するのは「巻二」「口伝 巻十」の全巻と巻一の抄出部分など一部だけであるが、全体は二十巻からなり、おそらくは十巻は詞華集、十巻は口伝集で、失われた部分を含めれば約五千首を超える大詞華集あったとされる。

それらの歌は、「上達部(公卿)・殿上人は言わず、京の男女、所々の端者、雑士、江口・神崎の遊女(あそびめ)※、国々の傀儡子(くぐつ)、上手は言わず」今様をうたう者がいると聞き及べば、後白河院と声を合わせて謡わなかった者は少ないくらいだと、自ら語るようにして聴き集めた五千首であり、そのあらかたを記し終えたのが院の42歳頃であることを考慮すると、雅仁親王の時代から「今様をライフワーク」と決めて取り組んでいたのではないか。

それだからこそ、神崎のかねさんを母の待賢門院が呆れるくらい、とことん付き合わせたのだ。水上交通の要港の神崎で、諸国の旅人と今様を謡い交わし、レパートリーを沢山持つかねさんが知っている歌を全てを吐き出させて書き記し、さらに、院自身がかねさんと寸分違わず謡いこなせるレベルに達するまで、かねさんを帰しても一人で鼓の音高く練習する。なんとも鬼気迫る芸道修行ではないか。

※ 淀川流域の水上交通の要港である江口・神崎は遊女(あそびめ)の一大拠点でもあった(下図参照(「梁塵秘抄のうたと絵」五味文彦著より)。