後白河院と平家の女(1)建春門院〜院の最愛の女性にして平家栄達の

後白河院の最愛の女性とされる建春門院について後室文化に造詣の深い故角田文衛氏(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20080516)は、「35年の短い生涯であったが、歴代のあらゆる后妃のうちで、これほど幸運に恵まれた方はいなかったと思う」と述べている(『後白河院〜動乱期の天皇』(財)古代學協會編 吉川弘文館より)。



建春門院は平時信の娘で名は滋子、異腹の姉に清盛の妻で二条天皇の乳母の時子がいる。滋子が小弁の名前で後白河院の姉の城西門院に仕えていたところ、煌く美貌と聡明さでたちまち後白河院を虜にして、その時から院は他の后妃を一切顧みなかったといわれる。

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応保元年(1161)、36歳の後白河院と21歳の滋子の間に皇子・憲仁が生まれ、滋子の兄時忠が憲仁を皇太子に立てようと目論んだことで、未だ世継ぎのなかった二条天皇の逆鱗に触れて解官され、後白河院二条天皇の関係はさらに悪化したが、二条天皇の乳母であり母代わりを務める姉の時子の計らいもあって滋子が天皇方の圧迫を蒙ることは無かった。


後白河院平清盛を接近させたのは二条天皇崩御である。死期を悟った23歳の二条天皇は生後10ヶ月足らずの息子六条天皇に譲位してこの世を去るのであるが、さしたる後ろ盾を持たぬ六条天皇体制の脆弱さを見限った野心家の清盛は、治天の君である後白河院と手を組む必要を感じ、方や強固な支配体制に平家の強力な武装勢力を組み込みたい後白河院の思惑とも相俟って、二人は憲仁親王立太子六条天皇の譲位と憲仁皇太子の即位(高倉天皇)を一気に推し進め、ここから平家一門の目覚ましい栄達が始まるのである。


高倉天皇の即位により皇太后の宣旨を下され、さらに建春門院の女院号を賜って女性として最高の地位に上り詰める事になった平滋子の美しさについて、井上靖著「後白河院」の第二部の語り手で藤原定家の実姉の健御前は、

12歳の初出仕で対面した建春門院の印象を、「ちらっとお見かけしたお顔の美しさは終生忘れられぬものでございます。世の中にはこのような美しい方もあるものかと、ただそのような思いの中に我を忘れていたのでございます」と語り、

さらに、病気で宿下がりをしている間に35歳で夭逝した女院を「神さまや仏さまが女人の美しさはこのようなものであろうかと、あれこれお考えになった末にお造りになったのが他ならぬ女院というお方であると、こうとでも申し上げるほか仕方がないと存じます」と追悼している。


下図は、後宮の華やかな象徴といわれる、女房の衣の裾や袖口を御簾の下からはみ出させる「出だし衣(いだしぎぬ)」を右上方に描いた「法住寺殿舞御覧図」(年中行事絵巻より)。


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後白河院の建春門院への思いは並ではなかったようで、二人で連れ立って、熊野行幸、安芸の厳島行幸を始め、頻繁に畿内の寺社行幸をされたばかりか、歴代の後宮では例の無い有馬温泉などにも出かけ、御所に居る時は、桟敷に並んで都大路を行き来する天皇摂関家の美々しい行列を見物するのを無上の愉しみにされたと角田文衛氏は述べている。


建春門院は美しさだけでなく聡明かつ気丈であったから後白河院を魅了したと言われるが、息子の高倉天皇の即位や、清盛の娘で姪に当たる徳子の高倉天皇への入内については積極的に後白河院に進言し、さらには二条天皇の警戒心から憲仁皇子(高倉天皇)の親王宣下が得にくかった時期には、高倉天皇即位の障害になることを恐れて後白河院の長子・以仁王親王宣下に強く反対している。


こうして平家一門は上皇天皇の双方と姻戚関係を築く事で傍目にも異常な栄達を手にしたが、さらに天皇の外祖父として皇室支配を目論む清盛が、娘徳子の男子出産を表立って望み始めたことから、後白河院の近臣と平家一門の緊張は極度に高まるのだが、それでも建春門院が他界するまでは何とか表面的な穏やかさは維持された。