後白河院と平家の女(2)丹後局((上)晩年の寵姫は5人の子持ち後家

安元元年(1176)年の平家出身の皇妃・建春門院の崩御は、これまで封じられてきた平家打倒の動きを一気に加速させる事になるが、その先鞭をつけたのは他ならぬ反平家の空気を読み取った後白河院であった。

自ら謀議に加わった鹿ケ谷事件は密告によって未遂に終わったが、清盛の娘・盛子の死に伴ない盛子が夫の前摂政・藤原基実の死後に伝領していた摂関家領の復帰を望んだ関白・藤原基房を後押しし、また平重盛知行国越前国を没収するなど、後白河院は立続けに清盛を挑発し、思い余った清盛は治承3年(1179)11月に隠居先の福原から数千騎を率いて入洛し、関白・藤原基房を解任、後白河院の近臣39名を追放・流罪・処刑にし、挙句は院政を停止して後白河院を鳥羽北殿に幽閉して厳しい監視下においた。

そして4ヵ月後、物々しい警護下で孤立状態にあった後白河院の身の回りの世話係として二人の女房が仕える事になるが、一人は藤原定家の異腹の姉で後白河院の皇子・以仁王の乳母を務めた京極局、他の一人は後白河院の近臣で今回のクーデタで平家に惨殺された平業房の妻・丹後局(高階栄子)である。

平業房は「梁塵秘抄」に度々登場する後白河院の近臣で今様上手であったが、鹿ケ谷事件に連座して清盛に処刑されるところを院の嘆願で一度は救われるが、今回の治承のクーデタで平家に惨殺され、妻の丹後局が院の女房として出仕した時は二男三女の子持ちの寡婦であった。

下図は乙前・小大進・さわのあこ丸などを招いて催された「法住寺殿今様会」の顔触れで、下方に青字で書かれた平業房の名も見える。


後白河院の幽閉中に高倉天皇の譲位を迫って孫の安徳天皇の即位を強行した平清盛の企みは以仁王の平家追討令旨・源頼朝木曽義仲の挙兵を誘発して平家の瓦解を一気に推し進めることになるが、さて、法住寺殿で院政を再開した後白河院は、養和元年(1181)10月5日に55歳の身で丹後局との間に皇女が生まれた事で世間を驚かせる。

後白河院丹後局への寵愛が半端で無い事は、故平業房の盛大な追善供養・業房の遺児を始めとする丹後局の縁故者への破格の厚遇・丹後局自身の従三位昇叙などで証明され、極め付きは皇女覲子が9歳にして内親王宣下と准三后宣下を同時に受ける異例の扱いであり、これにより、丹後局後白河院後宮で圧倒的な立場を築く。

しかし、後白河院が単に丹後局の朝廷一といわれた美貌に魅かれただけでなく、京都政権維持を担う最高権力者として、鎌倉政権と対峙するには余りにも脆弱な権力基盤を支える強力な近臣の一人として、彼女の比類のない才知をも見込んでいたことは、源頼朝を翻弄し、さらには反後白河包囲網ともいえる源頼朝九条兼実同盟に楔を打ち込んで離反させる等、執権女房の名をほしいままにした彼女の辣腕ぶりで証明されることになる。